2020年7月 今月のことば

2020/07/01

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

(マタイによる福音書 5章3節)
日本聖書協会『聖書 新共同訳』より

誰でも一度は耳にしたことがあるくらい有名な言葉だが、聖書の中でも分かりにくい箇所である。

多くの人は疑問に思うだろう。心の豊かな人というのは愛に満ちている人で、神様に褒められる筈だ。それが何で心の貧しい人こそが神に嘉されるというのか。

私は自分の心がギスギスしていてケチ臭いと思っているので自称「心の貧しい人」なのだが、天国がケチな私のものというのも、さすがに納得がいかない。

そもそも聖書は日本語で書かれた物ではないから、そこには翻訳の問題がつきまとう。どうも聖書の「心の貧しい人」というのは、日本語の一般的な用法とは違うようなのだ。

私は神学者ではないので、ヘブライ語の旧約聖書やギリシア語の新約聖書にあたって正しい解釈を主張する能力はないのだが、この聖句を聞くと、「歎異抄」の次の一節を思い出す。

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのい はれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。(中略)煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。

私は、イエスも親鸞のように「自分を神仏に評価される立派な人間だと自負している者より、自分を罪深く価値のない存在だと感じて神仏の慈悲にすがる者こそが救われる」と語っているように思うのだが、如何だろうか。自分たちが「立派な人間」になりうると考えないこと、ここに「倫理」とは違う「宗教」 の方向性があるのだ。

(零余子)