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新島八重×同志社女子大学

コラム

「一粒の麦」として ― 井深八重の足跡に誘われて ―

2013/01/16

小﨑  眞(人間生活学科 准教授)

新島八重を語る時に思い出されるもう一人の八重がいます。同志社女学校の卒業生の井深八重(1918年専門部英文科卒)です。看護師としての歩みを築いた点、会津魂の影響を受けた点など、不思議なことに新島八重と共通しています。

井深八重
井深八重 (同志社女子大学史料室所蔵)

幼少期

井深八重は井深彦三郎とテイの娘として1897(明治30)年に台北で誕生しました(※1)。父・彦三郎は井深宅右衛門(会津藩学校奉行、藩校・日新館館長)の三男として生を受けました。八重が7歳の時に、父・彦三郎と母・テイが協議離婚した結果、八重は母とは生き別れています。八重の幼少期の記録は不明な点が多いですが、生後ひと月余りで没した弟・重彦がいます。重彦の死も離婚の一因であったのかもしれません。その後、明治学院総理であった井深梶之助(父の兄、伯父)の家に預けられ、教育を施されました。梶之助の妻・勢喜子が病没した後、米国留学帰りで日本初の女性理学博士の花が後妻として井深家に嫁ぎました。勢喜子が没し花が来るまでの2年間、梶之助家の家事・育児にあたったのが後述する井深登世でした。


二人の伯母(左・井深登世、右・沼沢久仁)と八重
神山復生病院入所直前、
二人の伯母(左・井深登世、右・沼沢久仁)と八重
(『人間の碑(いしぶみ)』より転載)

同志社女学校時代

井深八重は、小学校卒業後、1910(明治43)年に同志社女学校普通学部に入学、その後、専門学部英文科に進み、1918(大正7)年に卒業しました。在学中は寮生活を送りました。八重が同志社女学校に入学した経緯の詳細は不明ですが、井深梶之助と新島八重が旧知であったことも影響しています(※2)。また、同校の寄宿舎生活を原則とした女子教育が八重に適しているとの判断から、あるいは、女性宣教師・M・F・デントン(Mary Florence Denton 1857(※3)―1947)の魅力ある女子教育への期待から、との説もあります(※4)。さらに、上述の井深登世の影響も否めません。登世は「大井深」と言われた総本家井深常七郎の妻であり、新島八重と同時期に鶴ヶ城に籠城して看護の業に努めています(※5)。戦後、西郷家(白虎隊と並び、21人が自刃した一家)の焼け跡から遺骨を集めて善龍寺に運びました。登世は長寿を保ち、終生、井深八重と交流を続けたようです。八重に多大なる影響を与えた人物の一人と評されています(※6)。この登世と山本覚馬や新島八重との間に接点があっても不思議ではありません。


一粒の麦として

八重は卒業と同時に長崎県立長崎高等女学校の英語教師として長崎へ赴任しました。翌年の1919(大正8)年、体調に異変が生じ、ハンセン病と疑われ、神山復生病院(私立カトリックハンセン病院)へ隔離入院することとなりました。入院後、「堀清子」を名乗りました(※7)。井深八重22歳の夏の出来事でした。この時に、八重を長崎まで迎えに行った縁者の一人に先の登世がいたと思われます。

その後、1922(大正11)年、誤診とわかりますが、そのまま病院に留まり、当時、社会から見放されたハンセン病患者の看護と救済に生涯を捧げました。1959(昭和34)年、ヨハネ23世教皇より、聖十字勲章が贈られました。ハンセン病克服の歴史に大きな光を灯した八重は患者たちから「母にもまさる母」と慕われました。1961(昭和36)年、国際赤十字から看護婦の最高名誉・フローレンス・ナイチンゲール記章が贈られました。1975(昭和50)年には同志社大学より名誉博士の称号が授与されました。さらに、1978(昭和53)年、昭和52年度朝日社会福祉賞を受賞しました。1989(平成元)年5月15日、静かに息を引き取りました。晩年、八重は自らの足跡を以下のごとく振り返ります。

今、この時の流れを顧みて、私がこの道をひとすじに進み得たことは、無論院長レゼー翁の偉大な人格とその指導に依るものではあるが、これを受け入れる基盤となったものは、まず何よりも母校の創立者新島先生の息吹のかかるキリスト教的雰囲気の中で学び得たことに依るものと信ずるのである。母校から頂いた眼に見えないたまものこそ、私の今日までの生涯を力強く支え続けた原動力に他ならないことを確信して、ただ感謝のほかないのである。(※8)

井深八重の生涯はハンセン病患者・元患者の方々との共なる歩みでありました。「終生、彼女は控えめで、自分を語ることはなかった」と語り継がれています。折しも、八重が亡くなった1989(平成元)年5月15日は、神山復生病院創立100周年記念式典の前日でした。「お世話になりました。神様の待っておられるよいところに行きます。喜んで……」と天に召されました。600余名の病友が眠る神山復生病院墓地の中にカタリナ井深八重之墓があり、自筆の墓碑銘「一粒の麦」(ヨハネ12・24)が刻まれています。その言葉は、自らの欲望から解放され、他者と共に、真の希望を見つめて歩み続けた八重の姿を語り出しています。

足跡からの問い

井深八重の歩みを支えた「眼に見えないたまもの」は何であったのでしょう。牧野登は会津魂を挙げ、「死ぬための戦い」の地獄を生きた井深登世らの一族女性たちの影響に注目します。さらに、牧野は、アメリカ史研究者の猿谷要が指摘する「サザン・ホスピタリティー」に会津魂の真髄を読み解きます。南北戦争の敗者である南部には、勝者の北部とは異なる精神世界があります。すなわち、勝者は勢いに乗って傲慢となりますが、敗者は挫折感や屈辱感の辛酸をなめ、その敗者の痛みからこそ他人に対する優しさが生まれます。そこに「サザン・ホスピタリティー」の姿勢が立ち現れます。戊辰戦争の敗者である会津には、同様の優しさがあるというのです。洞察に富む視座です(※9)。この敗者の論理は聖書の文化にも通底しています。特に、ヘブライ(旧約)聖書はいわゆる荒野の歴史の中で熟成された世界観を提示します。その世界観は、定住の文化の中にある自己実現を求める「自律的」な社会(帰属意識・同化意識などにより成立する社会)とは全く異なり、そのような社会から疎外された場、人間の思いや期待が無意味化される場で熟成された叡智です。それは、自分の理屈や正しさが打ち砕かれ、自分の世界へと閉塞しない新たな世界へ自らが拓かれることを語ります。井深八重の生き様はそのような自由を顕わにしています。それこそが彼女の語る「たまもの」であり「原動力」でした。

会津魂と聖書の文化に生きた新島八重にも同様のものが秘められているのかもしれません。その詳細は今後の研究に委ねることにします。

井深八重の墓碑
井深八重の墓碑
(2004年9月7日 小﨑眞撮影)
  1. (※1) 歴史調査の結果、台湾の地(台湾総督府の置かれた台北市樺山町の官舎の一室)であったと推測している 
    (牧野登『人間の碑―井深八重への誘い―』井深八重顕彰記念会2002年)。
  2. (※2) 鶴ヶ城内にて、新島八重と井深梶之助(当時15歳)の接点があったと報じている(牧野、2002)。
  3. (※3) 生誕年に関して異説がある。同志社女学校の教育に献身したデントンは、女学校隣接の相国寺に眠っている。
    この姿が神山に眠る井深八重に重なる。
  4. (※4) 牧野、2002。
  5. (※5) 吉海直人『新島八重の生涯―愛と闘いの生涯―』
  6. (※6) 牧野、2002。
  7. (※7) 八重は当時の慣例に従い、「堀清子」を名乗った。
    母・の養家が「堀」、父の養母の名が「キヨ」であったことに由来したとの説や、聖なる(holy)との言葉をなぞらえたとの説がある。
  8. (※8) 井深八重「同志社大学名誉学位をいただいて」『しばくさ』第14号 同志社女子大学 1975年。
    名誉学位授与との  文脈ゆえか新島襄への感謝の意を前面に訴えている。
  9. (※9) 会津魂を「会津ホスピタリティー」とか、「白川以北一山百文」になぞらえて「白川以北の誠意・真心」と称しても良いのかもしれない。
  10. 取材協力 : 神山復生病院 院長湯川智、事務局長小嶋康子/神山復生病院復生記念館、
    依田直樹/井深八重顕彰記念会 牧野登/高松宮ハンセン病資料館