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「正露丸」の意味

2018/09/18

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

「良薬は口に苦し」という古いことわざがあります。実は続きがあって、「良薬は口に苦けれども病に利あり」つまり苦いけれど病気に効くといっています。昔は漢方薬が主流だったので、苦くて飲むのに苦労したのでしょう。

その漢方薬には三つのタイプがあります。「湯・散・丸」という漢字に見覚えはありますか。「湯」は日本では銭湯のことですが、中国ではスープのことを意味します。そのため中国からの留学生が鍋をもって銭湯にスープを買いに来たという笑い話があります。また「湯」は漢方では煎じ薬のことですから、ややこしいですね。すぐ頭に浮かぶのは、風邪を引いた時に飲む葛根湯・生姜湯でしょうか。婦人薬の中将湯も記憶にあります。

次の「散」は粉薬で、胃薬の太田胃散・のどの薬の龍角散に名をとどめています。これも飲みにくいですね。そして三つ目の「丸」は文字通り丸薬で、小児用の宇津救命丸(関東)・樋屋奇応丸(関西)が有名でした。他に仁丹やういろうもあげられます。

ところで胃腸薬といえば、子供の頃よく正露丸を飲まされました。大きくて呑み込みにくいだけでなく、強烈な匂いも記憶に残っています。もともと正露丸はクレオソートを主成分とした胃腸薬(下痢止め)でした。それが匂いの元です。ですから漢方薬というより生薬ですね。

というのもこれは、江戸時代後期にオランダからケレヲソートという名称で日本にもたらされたものだからです。それを使って明治三十五年、大阪の中島佐一薬房から「忠勇征露丸」として商品化されました。これは日露戦争と関わりのある薬だったのです。

陸軍はクレオソートの殺菌力を信じ、チフスのみならず脚気にも効く万能薬と考え、日露戦争に出兵する兵士の常備薬としました(もちろん脚気にもチフスにも効きませんが歯痛には効くようです)。当初はそのままクレオソート丸と称していましたが、日露戦争ですからロシア(露西亜)をやっつけるという意味の「征露」丸の方がふさわしいということで、たちまち征露丸という名称が流布したようです。

戦争終結後、国際関係上「征露」は好ましくないとされ、行人偏をとって「正露」に改訂されました。ただし奈良県の日本医薬品製造株式会社だけは、今も一貫して征露丸という商品名で製造販売しているそうです。

その後、中島佐一の「忠勇正露丸」の製造販売権を有する大幸薬品は、昭和二十九年に正露丸の商標登録を申請し独占販売をめざしました。なおラッパのマークの正露丸という宣伝文句は、征露丸当時の進軍ラッパのイメージを引きずっているようにも思えます。

これに対して、クレオソート丸を陸軍に収めていた和泉薬品工業は訴訟を行い、最高裁で商標登録の取り消しが確定しました。既に普通名詞化しているというのがポイントです。そのため商標登録は無効となり、誰でも正露丸という名で販売していいことになりました。こうして大幸製薬の正露丸を筆頭にして、和泉薬品の正露丸、キョクトウの正露丸、その他本草製薬・大阪医薬工業・常盤薬品・富士薬品・正起製薬・加藤翠松堂・大和製薬・渡辺薬品工業の正露丸など、異なる製薬会社が同一名で販売しているのです。各社の包装箱のデザインを比較してみるのも面白いかと思います。

なお、子供には飲み込みにくかった漢方薬ですが、オブラートに包んで飲まされた記憶もあります。今は錠剤の技術が進化し、糖分でコーティングした正露丸糖衣もできており、匂いも飲みにくさも解消されています。しかし妙なもので、却ってあの臭い匂いがなつかしく感じられてなりません。