「千と千尋の神隠し」とハンセン病療養所との関係
「トンネルの向こうは不思議の町だった。ありえない場所があった。ありえない事が起こった。人間の世界のすぐ脇にありながら、人間の目には決して見えない世界。千尋が迷い込んだのは、そんな人間が入ってはいけない世界。驚きと不思議の町で千尋が見るのは、大きな無力感と小さな希望。」というキャッチフレーズで始まる映画があります。
主人公の千尋(本名:荻野千尋)は、10才の少女で、ごく普通の現代っ子です。両親と一緒に都会から郊外に引っ越す途中、一家は不思議な空間に迷い込みます。その空間は、実は人間が来てはいけない世界でした。そこには、日本に棲む八百万(やおよろず)の神々たちが疲れを癒すためにやって来る湯屋がありました。湯屋は湯婆婆という魔女が支配しています。この世界では人間は、消えてしまうか動物になるかしかありません。生き残るために、また豚にされてしまった両親を救うために、千尋は「千」という名前で、湯屋で働き始めます。一生懸命働く過程で様々な経験をして、千尋の中の「生きる力」が目覚め始めます。
この話は、映画監督の宮崎駿によって描かれました。宮崎監督の映画は不思議です。どの作品を見ても、そこに大きなメッセージが隠されています。実はこの映画「千と千尋の神隠し」は、宮崎監督がよく散歩に出かけるある場所が舞台となっているのです。それが、東京都東村山市にある国立ハンセン病療養所多磨全生園です。多磨全生園は甲子園球場の何倍もある広大な敷地にあり、そこには宮崎監督に映画「トトロ」の森をイメージさせた大きな森が存在しています。今では多くの一般市民が散歩などで行き交う療養所ですが、以前はまったく違いました。そこは死後の世界でした。
宮崎駿監督が描いたハンセン病療養所
現在、日本全国に13の国立療養所があります。そこはこの日本の社会では生きることを許されない、ハンセン病を病んだ人々が集められた死後の世界でした。彼らは療養所で人間扱いされることなく、まさに「座敷豚」とさげすまれて呼ばれていたのです。だから、千尋のお父さんとお母さんは「豚」になったのでしょうか。療養所ではみんな自分の名前を奪われます。あたりまえのように、偽名を名乗らされるのです。本名を名乗ると家族に迷惑をかけてしまう、そんなことをあたりまえのように言われ、自分の大切にしてきた本名を奪われます。千尋も「千」と名乗りましたね。
まだまだ不思議なところがあります。療養所の全ての患者は働かなくては生きていくことができないのです。全員が強制労働をさせられるのです。それが原因となって、多くの患者が命を落としていったといいます。「千」も湯屋で働かされましたね。働かないと、そこで生きてゆく資格がないからです。そこには不思議な人たち(生き物)がいました。顔のない人、手が6本もある人(釜じい)、蛙男(青蛙)、みんな姿が変わっていくのです。そして、人間でありながら人間として認めてもらえない、死んだも同然の死後の世界があるのです。それが、日本のハンセン病療養所の現実です。
私自身、そんな多磨全生園と関わりを持つようになって今年で9年になります。そして、毎年同志社女子高校の生徒たちを多磨全生園に連れて行くようになって、今年で6年目になります。
さて、そんなハンセン病を患っている人々と長く関わってきた同志社女子部の先輩がいます。その人の存在を知らないまま同志社女子大学を卒業してしまうことは、とても残念なことです。その人物とは、井深八重さんです。同志社女子部130周年を記念するこの年、この卒業生の思いに心を向けたいと思います。
井深八重とハンセン病
1919年(大正8年)、静岡県御殿場市の日本で最初のハンセン病病院『神山復生病院』に一人の娘が患者としてやってきました。井深八重、22歳です。それは思いもかけぬ運命のいたずらでした。明治23年、八重は旧会津藩家老からの家柄で、国会議員にまでなった井深彦三郎の娘として生まれます。明治学院学長だった父方の叔父、井深梶之助の家に物心ついてから預けられ、何不自由なく英才教育を施された八重は、京都の同志社女学校で学びます。今の女子中高、女子大学を卒業後、英語教師として長崎の県立女学校へ赴任したばかりでした。
ところが一年後、縁談の話がきた矢先、八重は自分の体に異変を発見します。すぐに診察を受けますが、なぜか診断結果が八重に知らされませんでした。何も知らされぬまま神山復生病院につれられてきた八重は院長室で思いもよらない言葉を聞いたのです。「ライ」という言葉です。当時、一般にライ病は遺伝病という誤った俗説があり、「恥ずべき業病」とされていたからです。名門・井深家からライ患者を出すことは一族の重大事件であり、八重は事実をふせられたままライ病院に隔離されたのでした。八重の脳裏を「自殺」ということばが幾度となく過ぎります。しかし、死ぬまでもなく既に戸籍からも抜かれ、社会的に死んだも同然の八重でした。
しかし、絶望の淵にいる八重の目に、笑顔で患者たちに接し、自分も感染するかもしれないのに素手で患者をなでさする院長、フランス人のレゼー神父と、患者たちの明るい姿が映っていたのです。マリア像の前で「空の空なるかな・・・みな空なり」という聖書の言葉を考えながら彼女の中で、思いもよらぬ世界が開けていました。「もしかしたら、この世で生の望みを絶ったはずの彼らが新たな生の意味に目を開き、神の手に身を委ね、決して空ではない確かなものをつかみとろうとしているのでは!」ないのかということでした。
一年が経ち、なかなか症状が悪化しない八重は東京の皮膚科の親戚のもとで再検査をうけると、なんとライではない、という診断が下されたのです。つまり、誤診でした。しかし八重は、一転して絶望の底から救われたにもかかわらず、なぜか喜んではいけない気がしていました。そして、彼女はやっと解放された病の恐怖に、再び今度は自分から飛び込んでいくのです。そこには看護学を学び、病院でただ一人の看護婦として働き始める八重さんがいました。人にとっては苦行にみえる道も彼女にとっては最も魂が充たされる悦びの道であったのでしょう。八重は戸惑い苦しみましたが、決意をしたのでした。その決意とは、この一年間出会ってきたハンセン病患者の生き地獄、信仰だけを頼りに腐ってゆく肉体をいとおしんで死を待つ、70名のハンセン病患者のいる神山復生病院に帰ることでした。
八重はそう決意すると、東京半蔵門にある看護婦学校速成科半ヵ年で学び始めます。1923(大正12)年9月には看護婦免許の国家試験をパスし、直ちに財団法人神山復生病院看護婦に正式に働き始めたのです。八重の看護婦としての帰還をレゼー老院長や患者たちはどんなに喜んで歓声をあげたことでしょうか、井深八重、27歳の秋でした。第二の人生の出発ともいえるでしょう。
しかし、それは苦難の道でした。看護婦は彼女一人だけでした。その中で、老院長を助けて患者の看護は勿論、病衣や包帯等の洗濯から食事の世話、経営費を切り詰めるための畑仕事、義援金の募集、経理まで、病院のためなら何でもしました。そして、1930(昭和5)年にレゼー老神父が病没し、八重の献身的な仕事は変わらず、むしろ戦争の激化から患者をいかに守るか、食糧難をどう乗り切るかでしたが、八重の全力投球は続きます。
戦後、ハンセン病には一大朗報がありました。プロミンというライ特効薬が発見され、ライ病患者は病気が完全に治る時代がやってきたのです。八重の長年の苦労も報われる日が来ました。1959(昭和34)年復生病院創立70周年にローマ法王から表彰され、さらに2年後の1961(昭和36)年には看護士最高の栄誉フローレンス・ナイチンゲール記章を受章しました。
一粒の麦として
多くの患者たちが、八重の献身的な看護と笑顔に救われていったのです。はじめはたった一人で始めた、みんなが嫌がる、誰もが寄り付きたくもなかったハンセン病患者とのかかわりでした。そんな、八重を支えた言葉が、今日も静岡県の御殿場の八重の墓に刻まれています。それが、今日お読みした聖句、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」です。八重はたとえ一人の小さな働きあっても、神様が実を結んでくださるという信仰を支えに、ハンセン病患者さんと共に生きたのです。
その後も八重は復生病院の看護婦長として働き続けます。1989年5月15日ハンセン病患者を救うために全生涯をかけた井深八重は、御殿場市内の病院において91歳で永眠しました。同志社女子大学で学ぶみなさんは、この女性の後輩です。将来、あなたを必要としてくださる人を前にしたとき、あなたが「一粒の麦」として働くことができる人となってください。この同志社女子大学でその準備をしてください。豊かな心の備えをしてください。 |