同志社女子部は21世紀早々に創立125周年を迎える。1949年設立の女子大学は20世紀中に50周年を経た。1877年4月に開業した同志社女学校はその始め、正式名称は同志社分校女紅場であった。校長は同志社社長新島襄である。新島の同労者J. D. デイヴィスの熱望していたのは同志社女学部(a fully equipped Women's department in the Doshisha)であったと、のちにM. F. デントンが初期の同志社女学校について書いているのに照応する名称であったかもしれない。

1878年の「同志社女学校広告」は、1875年開校の同志社英学校では若干の年月のうちに同志の友が集い来たっているが、「いかで此楽を少女等に分ばやとて去歳の四月官の許を得て」「男女の分なく学の道の一日も離べからざるものなりと しろしめす人々の速に女子の入学を促し玉ひ 真の楽をゑさしめ玉はんことを希ふになん」とうたっている。これを受けるかのように、この年のキリスト教週刊誌『七一雑報』(9月20日)は2児の母が同志社入学のために上洛したことを伝えている。彼女は「去る頃西京同志社の規則書と同地に新築なりし女学校の学則を読みおはつて 心の中に思ふやう婦女に生れて学問なきは実に残念至極なり 何卒女学校に入て勉強したきもの」と決意し、ついに夫の協力を得て「上原(方立)氏が西京に帰らるゝ 砌同地より入校のため同道せし者 男一人婦人二人娘一人なり」の一人に加わった。同誌には安中教会の近況の中に「殊に喜ぶべきは愛姉なる浅田(タケ)江場(かね)の両女子は 自ら学識なきを憂へ 今より同志社の女学校に入り勉強せんと欲し今回市原(盛宏)氏と同伴して西京へ赴くことに決定せり」と報じた記事もある。彼女らは上州から横浜に出て汽船で神戸に向かったのである。『七一雑報』は続いて、彼女らが入学したであろう同年秋の女学校が「追々盛大に趣く様子にて現今生徒は二〇名なりといふ」(同年10月4日)と伝えているから、この中に上の5名を含んでいたと推定できる。同志社女学校がどういう雰囲気をつくっていたかをうかがうことができる。

9名の生徒で開校した同志社女学校はそれから百二十余年を経た今、同志社女子大学の在学生は五千名を超える。喜ばしいことではあるが、今日、大学の大衆化が進むなかで大学、とりわけ私学の独自性が問われ、他方少子化による学生数の減少はその経営の見通しについてさまざまな課題に直面している。『同志社百年史』の巻頭の言葉は125年を経ようとしている本学にも共通する。

「あらためてその創業の人々の抱懐した立学の理念を確かめ、またその志を継承し、展開するために同志社の業に尽瘁した人々の姿を追い、かつまた、そこに学窓生活を送った校友、同窓の営みを辿ってみることが、今日ならびに将来にむけて、その背負った課題に対処していく上で緊要な道程の一つであろう」

これまでの同志社には『同志社五十年史』(1930年)、『同志社九十年小史』(1965年)、『同志社百年史』(1979年)があり、別に青山霞村『同志社五十年裏面史』(1931年)もある。しかし、いずれも同志社の中で女子部がおかれた役割はうかがわれるものの、女子部そのものの歴史としてみると、いささかのもどかしさを免れないところがあった。女子部独自の歴史としては『同志社女学校期報』第24号(1907年)の和田琳態「同志社女学校三十年畧歴」がもっとも早い。『同志社創立八十周年記念誌』(1955年、同志社同窓会発行)、『同志社創立九十周年記念誌1875-1965』(1966年、同志社同窓会発行)、『同志社創立百周年記念誌(1875-1975)』(1976年、同志社同窓会発行)、『同志社女子部の百年』(1978年、同志社女子中高・同志社女子部創立百周年記念誌編集委員会発行)、武間冨貴『スモークツリー』(1983年、同志社同窓会世話人一同発行)、『同志社同窓会設立百周年記念号』(1993年、同志社同窓会発行)は、いずれも貴重な歴史記録である。しかし、回想、資料、年表などが中心であって、歴史として物足りなさは免れなかった。

本書は写真集であって、それらの不足を満たすものではないが、つぎの特色をあげることができる。まず同志社女学校創設期に関して近年いちじるしく研究が進んだアメリカン・ボード、ウーマンズ・ボードなどの宣教師文書を使用して叙述しうるようになったことである。同志社の学校に対してアメリカン・ボードとその派遣宣教師が想定した学校は伝道者養成のトレーニング・スクールであり、女学校は伝道者の妻を養成することを主目的としたボーディング・スクール(寄宿学校)であった。新島襄が腐心したのは男学校をトレーニング・スクールではなく、キリスト教主義の一般を対象とする学校を建てることであった。女学校ではA. J. スタークウェザーとつぎに参加したH. F. パーミリーたちは、むしろ宣教師の考える実務的カリキュラムではすぐれた生徒をひきつけることができず、また女子教育の効果を発揮できないことに気づき、そのことをボードに訴えている。リベラルアーツの女学校を目指したのだった。同志社女学校は最初の校舎建築をはじめ、物心ともにアメリカの女性クリスチャンの援助献身によって成ったことを忘れることはできない。

つぎに、同志社がキリスト教主義のゆえに、明治期、昭和戦時下に負わなければならなかったさまざまな重荷という共通項とともに、実は同志社の男学校、同志社大学以外の同志社の女学校、同志社女子大学であるとの自己主張が現れ出る叙述があることである。新島襄の大学設立の理念を共有しながらも、第2次世界大戦後の新学制のもとで、同志社女子専門学校が同志社大学の1学部に吸収合併されることなく、同志社大学とは違った特徴を持つ女子大学として独自の途を選んだことも、そのことを物語るかもしれない。

新島襄という高い理想とあこがれを抱いて生きた人物の思いが同志社に結実し、その思いを重ね合わせた人びとによって125年にわたって担われてきた立学の理念を確認することなしに、現在と将来の同志社女子大学はないのである。


記念写真誌 同志社女子大学125年