西暦2000年を人びとは新しい時代への期待と高揚をもって迎えたことであろうが、この年は、女子大学にとっても新制女子大学設置以来の画期的な改革が起こった年として記録・記憶されよう。けれども、それに先立って冷戦の終結、ソ連邦の崩壊、日本経済の失速と方向転換などの歴史があったように、大改革に先立つ80・90年代は、熱く長い討議が行われた時期として、女子大学の歴史上、きわめて重要な意味を持つ。今後21世紀になって時代の潮流を見ながら図られるであろうさまざまな展開は、この時期の検討を受け、それが器になってなされるものといって過言ではない。その10年の大きなうねりの源となったのは、京田辺キャンパスへの移転、大学設置基準の改正、そして少子化と志願者・入学者層の変化である。
短期大学部の新設と新たな展開
そもそも短期大学部の開設の趣旨は、新島の筆になる「同志社女学校規則」(1883年)にまでさかのぼることができる。そこには明治初期の先進的な試みとして「本校ニ於テハ専ラ婦徳養生上ニ注意シ勧奨訓誡以テ生徒ヲシテ謙遜慈愛忠貞自治ノ良質ヲ培養セシメ……婦人一身上ニ必要ナル事件ノミヲ教授」することを目標にし、さらにそれを受けた「改革の趣旨」(1892年)には同志社女子教育の真骨頂は「智識を目的とするものと修練の為めにするものとを弁別」し女学校が送り出す人物は「家庭を担任すべきもの」と「社会の表面に立ち、婦女子の地位を高むるが為に、一臂の力を尽くさんとする者」として、実践的な実学の試みが述べられている。短期大学部は、まさにその線上にあるものである。
すなわち、4年制大学の亜流あるいはその小型として速修的な効果をねらった知識の羅列的な詰め込み機関ではなく、キリスト教精神に裏づけられた実用に即する知識や技能を提供する場として位置づけられたのである。
開設、1986年。設置学科、英米語科ならびに日本語日本文学科。ともに定員200名。開設のこの年開始・発足したものには、のちに学芸学部日本語日本文学科に引き継がれる新入生学外オリエンテーション、英語暗唱大会、日本語日本文学科を母体とした「同志社女子大学日本語日本文学会」などがあるが、その後も、(表:短期大学の主な活動)ような活動を通してより充実が図られた。
こうした活動は内外の高い関心を呼び、開設当初より全国短大の中でも常にトップの一角を占め多くの受験生を迎えるとともに、卒業予定者にはその数倍の求人数が来るなどまさに開学の精神が花開いた感がある。ところが、ここに、当初明確に予期しがたかった事態が到来する。少子化による18歳人口の減少である。
18歳人口は1992年の205万人をピークに下降に転じ、計算上、全国レベルでは90年代初頭に短期大学部で収容人員が志望人員を上回り定員割れを起こし、2010年を目前にして4年制大学でも定員割れを起こす。各大学は、短大の4年制大学化・女子大学の共学化・高齢化を見越した福祉関係学科の新設などでこの危機を切り抜けようとしている。この危機は、女子大学においても決して例外ではなかった。1994年、企画調査課を発足させ対処の方策を模索し、寄せられたさまざまな資料を基にした大議論を経て、1997年3月、ついに、短期大学部を改組転換し、新たに社会科学系の学部の開設に向けて文部省と交渉するとの結論を導くに至った。そして、定員400人の「現代社会学部 社会システム学科」の設立準備委員会が設けられ、1998年法人の評議会・理事会を経てその実現に向けて本格的な準備が進められることとなった。短期大学部は同志社精神のもっとも根幹の部分を基盤にして十二分に社会的役割を果たし、2000年度、余力を残しながら募集を停止した。
短期大学部の主な活動
編入関係
- 1987年
- アメリカ、メアリー・ボールドウィン・カレッジ( Mary Baldwin College)への3年編入制度導入
- 1988年
- 女子大学学芸学部英文学科への編入制度導入
- 1991年
- 女子大学学芸学部日本語日本文学科への編入制度導入
- 1994年
- 龍谷大学法学部法律学科・政治学科への編入制度導入
- 1995年
- 女子大学生活科学部人間生活学科への編入制度導入
女子大学4年制学部との単位互換制度導入
同志社大学 神学部、法学部法律学科・政治学科への編入制度導入 - 1996年
- 女子大学学芸学部音楽学科への編入制度導入
同志社大学経済学部、商学部への編入制度導入 - 1997年
- 関西大学総合情報学部総合情報学科への編入制度導入
関西学院大学総合政策学部への編入制度導入
授業関係
- 1987年
- イギリスにおける海外夏期研修開始
- 1988年
- 英米語科特殊研究クラスによる英語ミュージカル公演開始
- 1995年
- 中国における海外夏期研修開始
学芸学部日本語日本文学科の開設
短期大学部の例をあげるまでもなく、同志社女子大学がキリスト教国際主義を校是として掲げ百余年の折々に社会の要請にふさわしい人材を育成してきたことは紛れもない事実であるが、それがともすれば、西欧文化の受容に長けた者の育成であるかのように捉えられてきた側面も一方では否定できない。皮肉なことに優秀な人材を育てれば育てるほど、そのような傾向が外のみならず内においてさえ強くなることがある。けれども、今日の国際社会で果たすわが国の役割に鑑みるとき、そしてそこに女子大学が教育・研究を通して貢献しようとするとき、海外に目を開くとともに、日本と日本人について主体的に語ることのできる発信型の人材育成の重要性に思いを至らせざるを得ない。1982年の「田辺校地利用について」の答申には、「日本語・日本文学、日本文化史、比較文化を中心として、帰国子女や外国人留学生を積極的に受け入れる講座、および外国人に日本語を教えるための教授法等の講座を設けること……海外文化を受け入れるだけでなく日本文化を外国に紹介すること」と、その必要性が強調されている。そしてそれを受け、具体的な試みとしてなされたのが、1989年4月新設の、日本語日本文学科である。
設立の経緯を考えれば、「国語国文学科」ではなくそれを国際的な視野に置いた「日本語日本文学科」でなければならなかった。上代から現代までを通した日本語学、日本文学を対象としたことは言うまでもないが、それらを外国人に伝える術としての日本語教育を加え、新設学科は3本の柱を持つこととなった。
偶然ではあるが、平成という新しい元号とともに門出を迎えた学科は、何か、学生・教職員に晴れやかな新鮮な旅立ちを感じさせたものである。当時の学長 石田章は、学科開設と同時に創刊された『日本語日本文学科だより』の冒頭で、「私は、何時の日か、それは決して遠くない将来、この新しい『日本語日本文学科』から巣立っていった人たちが、世界のあちこちで、日本語を教え、日本文学を語り、日本文化を紹介している姿を、そしてまた、日本文学や日本語を学ぶために、外国人の学生や研究者が、女子大学のキャンパスで女子大学の学生や教職員と、何の屈託もなく打ち解けて語り合う姿を、そしてその中心に『日本語日本文学科』が確固として在るそういう同志社女子大学の姿を、思うのです」と、その意気込みと期待を述べている。この年、新設学科の門をくぐった者は、241名であった。
大学院文学研究科日本語日本文化専攻の開設
さらに、日本語日本文学科設立構想をより高度な研究教育レベルでも実現しようと、1997年、大学院文学研究科に「日本語日本文化専攻(修土課程)」が開設された。これは、基礎学部の学芸学部にある日本語日本文学科・英語英文学科・音楽学科における従来の研究教育分野の区分・枠を取り払い、新たに日本文化史研究・日本文化方法研究・日本文化内容研究の3領域に再編成してその融合・深化を図ろうというものである。まず文化をこうした包括的な視点で捉えた上で個々の対象に取り組んでいこうという試みは、全国的に見てもきわめて珍しい。また、いずれの分野を研究しようとも京都の文化に関する科目の履修が義務づけられているが、今出川キャンパスでも一部の授業を行う「サテライト・キャンパス」方式を採用し、必要に応じ、実際に寺社仏閣等に赴きそこで見聞しながら考察を深めていくという授業が行われている。それによって時間の限られている社会人にも開かれることとなったが、留学生とともにその割合はきわめて高く、一般の学部卒業生にとっても大いに刺激になっている。さらに、2000年4月には、同博士課程をも開設した。
カリキュラム大改正――「大綱化」を受けて
文部省大学設置基準は、1956年に制定されて以来、教育課程と卒業要件、教育研究組織、施設・設備など細部にわたって大学のあるべき姿を示しその水準維持に寄与してきた反面、結果として各大学の運営に枠をはめ、画一化を進行させ個性的な大学のあり方を阻んできた。
そこで、文部省はその改正に動き、1991年に基準を大幅に緩和あるいは弾力化した。中でももっとも重要な改正がなされたのは教育課程で、教育現場で三十有余年の時間をかけてしっかと根づいた一般教育(いわゆる「一般教養・外国語・体育」)・専門教育の区分を廃止するとともに、一般教育科目の必修枠がはずされ、各大学が独自に教育課程を編成する道を開いた。さらに、そのような自由裁量を認めた上で、それを保障するものとして、大学が自らの責任において教育・研究のありようを見極めその維持・向上を図る「自己評価・自己点検」という概念を掲げた。
これらの改革は「大綱化」と呼ばれたが、女子大学でも大学改革委員会を設置し即座にその咀嚼作業に取りかかり、90年代初頭からさまざまな角度からカリキュラムの見直しがなされ次ぎつぎと実行に移された。それらは、2000年度をもってひとつの完成をみたが、そこではまず、従来の科目群を「入門・概論科目」「応用・各論科目」「卒業論文・卒業研究」など九つの領域に再構築している。これによって、3・4年次に集中していた専門科目は1年次からの履修を認めた上に、基礎的知識から卒業研究にまで体系化された。
また、「共通学芸科目」と名を改めた従来の一般教育科目は科目数が従来とは比較にならないほど大幅に増えたが、それに加えて学部・学科外、さらに大学外にまでその選択の機会が拡大した。すでに、1994年には京都地域の大学連合組織「京都・大学センター」(後、「大学コンソーシアム京都」に改称。これにより、女子大学の初めての男子学生受け入れが行われた)との間で単位互換の制度がスタートし、1995年には4年制学部と短期大学部、1997年には同志社大学との間で単位互換制度が実施されている。その科目数は、大学コンソーシアム京都で288(2000年度)、同志社大学では何と593(同)にも及ぶ。
さらに、長期留学制度として単位互換が認められている大学は、国内ではフェリス女学院大学、海外ではメアリー・ボールドウィン・カレッジ、スミス・カレッジ(Smith College)など12にのぼっている。また、女子大学と単位互換制度を結んでいない大学であっても一定の条件を満たす科目の履修であれば、「外国大学認定留学制度」として単位取得を認めることとした。すなわち、学生が自ら選択し学んだ大学の単位も認めようというのである。これらの制度で取得した単位は、原則的にすべて卒業単位として認められる。このような従来からは考えられないような膨大な科目群の中から学生は、学びたい科目を自由に選択する。それは、共通学芸科目の領域のみならず、専門領域においても学びの場を拡大した。
加えて、履修の仕方も、九領域それぞれ最低修得単位数は設定されるものの、それ以外に大幅な選択の余地を持つ形態が導入された。すなわち、数多くの科目の中から自分の興味・関心に応じて自由に選択する、学生の数だけ履修パターンが生まれるという最大限の多様性が認められることになったのである。
また一方では、女子大学の設立の趣旨に立ち返り、今日における社会的使命・将来の望ましいあり方を模索するための自己点検・自己評価の実施に関する検討も重ねられ、1995年、初の報告書「同志社女子大学自己点検・評価報告書」が作成された。これは、カリキュラムをはじめとする教育内容はもちろんのこと、教員の研究活動・学生生活・施設設備・財務人事など大学の運営について、今のありようの妥当性を探り課題があるとすれば何か、どのようにすればそれが改善されるかを全学的に調査・分析したもので、500ページにも及ぶ。その後、「同志社女子大学白書」(1997年)、「基礎データ調書」(1997・1998年)といった女子大学の現状を客観的に見ようという報告書が次ぎつぎと出され、大学の自主・自律が大きく前進した。
門戸の更なる開放
1990年代以降、短期大学部の改組転換など深刻な影響を与えた少子化が進行している反面、大学進学率が向上し、とくにそれが女子で著しく、5割を超えるようになり、また、大学・大学院で学びたい意欲を持った社会人が増加している実態がある。加えて、政府の「留学生10万人計画」に後押しされた一定数の外国人留学生が常に日本で学ぼうとしているのも事実である。
こうした時代の流れに鑑み、女子大学では、従来からもっぱら対象としてきた高等学校卒業後の受験生以外にも門戸を大きく開くに至った。まず、入学試験の改革である。法人同志社自体、国際中学校・高等学校を設けるなど帰国生の受け入れに以前から熱心であったが、1985年度からはそのための入学試験が、別途、実施されるようになった。外国人留学生対象には、1990年度より別枠の入学試験を行っている。さらに、急増している社会人志願者のためには、1995年度より入学試験・3年次編入試験を、別途、設けた。
つぎに、学期も、2000度年から、通年ではなく半期(春学期・秋学期)ごとに終了するセメスター制となった。セメスター制を採用することで、時間の限られた社会人でも1学期間に少ない科目を集中的に学ぶことができ、また日本と異なる学期制をとる国の外国人学生あるいはそのような国から留学を終えて帰ってきた日本人学生をより受け入れやすくなった。
また、90年代に入って生涯学習という考え方が定着するようになったが、女子大学においても京都府主催の「リカレント教育推進協議会」の会員になり社会に開かれた大学を目指している。「リカレント教育」とは、学校教育を終えた社会人に対して行われる各種の教育のことを指す。1997年には、リカレント教育推進協議会と共催で女子大学の第1回リカレント学習講座「日本語の世界」を行った。
学部・学科の名称変更、「一般教育」の解体
カリキュラムの見直しがなされると同時に、最近の教育・研究の広がりと動向をより的確に表すための学部・学科名称の検討もなされた。
まず、英文学科では、1991年度から1995年度までは英米文学コース、英米文化コース、言語・コミュニケーションコースの三コース制をとっていたが、それを1996年度からは英米文学・文化コース、言語・コミュニケーションコースに改め、さらに2000年度からはコース分けをとらず、文学研究科目群、文化研究科目群、言語研究科目群、コミュニケーション研究科目群の科目群制をとることとした。またそれに伴って、1994年度から学科名称を「英語英文学科」と改めた。
ついで、1995年度からは家政学部を「生活科学部」と改称し、これに伴い家政学科を「人間生活学科」、食物学科を「食物栄養科学科」と改めた。さらに、食物学科の中の食物学専攻を「食物科学専攻」とした。
それに合わせ、大学院でも、1998年度には文学研究科英文学専攻を「英語英文学科専攻」と改称し、1999年度には家政学研究科を「生活科学研究科」と改めた。
大学改革委員会の検討課題のひとつに一般教育組織再編があった。一般教育教授会においても「一般教育検討委員会」を設けて、大綱化への対応策の検討を重ね、1993年7月9日付で「一般教育組織再編成および新カリキュラム案」を学長、教務部長に提出し、全学的視点から大学改革委員会、カリキュラム委員会等における検討を要請した。組織に関しては「自由学芸(現一般教育)科目を担当するセンターとして、リベラルアーツの理念と内容を実施するための責任主体にふさわしい名称(自由学芸教育研究センター)に変更し、各学科から独立した教育・研究組織とする。従ってこのセンター教授会は各学科教授会と行政上も同等の機能を保持するものとする」ことをうたっている。つまりカリキュラム編成・人事・予算・評議員選出その他を従来どおり持たせようとするものであった。
1994年4月、一般教育は機能的には従来のまま「自由学芸教育センター」と名称を改め、一般教育科目も「自由学芸科目」と改称された。しかし、自由学芸教育センターとしての将来への展望につなげようとするものとはならず、同センターが解消する1996年3月までの2年間は、大学改革委員会の決定による一般教育所属教員の各学科への所属変更のための、いわば準備期間となった。1995年度には一部の仮所属が決められ、翌96年4月には同センターの全教員は各学科に分属し、同時にセンター教授会と事務室は解散した。これに先立って教務部長、各学科主任および聖書・外国語・体育・自然科学分野の委員からなる自由学芸教育委員会が発足し、センター解散後の自由学芸科目および担当教員の人件などの運営に当たることになった。