教育研究設備

家政館焼失と楽真館

1963(昭和38)年1月3日午前7時、家政館が漏電のために全焼した。ここには家政学専攻の実験室や研究室があり、その心臓部ともいうべき重要な場所が多くの貴重な図書、資料、器具などとともに一瞬にして壊滅し、当時の関係者の衝撃にははかり知れないものがあった。しかし、かねてより創立90周年記念事業のひとつとして新館建設計画が進んでいたこともあり、焼失より1年3か月後の1964年4月7日に新館の第1期工事が完成し、前総長大塚節治によって「楽真館」と命名された。楽真館の名称はコリント前書13:6から、愛は「不義を喜ばず、真理を喜ぶ」の「真理を喜ぶ」に「楽真」の字を充てたものである。
地下1階・地上5階の延べ面積1,549.05坪の建物は、焼失した家政館の総坪数の約5倍半あり、当時の同志社学園の中では最大で、最新の設備を備えた建物となった。さらに1966年1月10日に完成した第2期工事と合わせて約2,000坪、総経費は3億円に及んだ。楽真館には、最終的に家政学関係の研究室、実験室、実習室をはじめ、一般教育の研究室、英文学関係の研究室、LL教室などが入り、のちの英文学科、音楽学科の田辺移転までの間、本学の中心的建造物として機能した。殊にLL教室の設備は当時としては最新のものであり、1964年6月には女子大学で初めての全国的な学会であるLLA全国大会が開かれ、その設備は参加者から多くの羨望を集めた。

頌啓館

1967(昭和42)年9月12日には、音楽学科の頌啓館(現頌美館)が竣工した。それまでは音楽学科の授業は栄光館2階および屋上の教室を使用していた。栄光館北の旧岡田邸の敷地を買いとり、地下1階・地上4階の音楽館が建設された。ルカ2:28~32、シメオンのたたえ歌から、「神の啓示を頌める」という意味で「頌啓館」と命名された。玄関正面の題字は時の学長として最初に建設計画を推進した瀧山徳三の書である。このように1・2階に普通教室、講義室兼研究室、事務室、合奏練習室、3・4階に吹き抜けの大音楽室などを備えた音楽学科専用の建物が与えられたことは、音楽学科の内容の充実と更なる発展につながるものであった。また、1973年には音楽学科専用として、バロックオルガンの構造原理をもって作られた清楚な響きのパイプオルガン(西ドイツのクライス社製)が頌啓館の大音楽室に設置された。1975年5月17日に開かれた披露演奏会では、鴛淵紹子教授がバッハの「フーガの技法」を全曲演奏し、その力演は1973年5月18日に亡くなった中瀬古和教授への追悼と相まって満員の聴衆に深い感動を与えた。

栄光館瞑想室・小礼拝堂

頌啓館の新築に伴い、1971年(昭和46)1月6日、栄光館3階に瞑想室と小礼拝堂が完成した。これは保科幸一の設計に基づき、ステンドグラスの原画を田中忠男画伯、工作をベニス工房、建築工事をミラノ工務店に依頼したもので、ヒバード宣教師や卒業生の寄附が捧げられた。静かに自己を見つめ、神と語ることのできる瞑想の場が大学にできたことは大変意義深いことであった。

心和館新築と家政東館の取り壊し

1971年3月4日、常盤寮西館跡に、新島襄の句「心和得天真」から命名された「心和館」が竣工した。この建物には、食堂をはじめ家政学部の実験室、実習室、講義室、演習室、静養室などが含まれ、とくに3階の400名収容の講義室は今出川キャンパス最大の人数を収容する教室となった。
さらに1978(昭和53)年8月末には、心和館の増床工事(第2期工事)が完成し、かねてより女子中学高等学校から出されていた家政東館移転の要請に応えて家政東館を取り壊した。増床部分には家政学部の実験室、実習室、研究室などが入り、長年家政東館とデントン館にあった研究室が移転し、家政学部の充実発展に資することとなった。
家政東館は家政学関係の実験室、実習室の不足から、1961年4月に竣工した建物で、建築材料には同志社香里高校の木造2階建て校舎の古材が用いられ、銅駝寮の跡に建築された。古材を用いた建物は振動が激しく、運動場からの土埃、騒音、夏の厳しい室温などの悪条件が重なり、決して教育研究条件には恵まれていなかったが、心和館移転までの18年間、教員のたゆまぬ努力と熱意の中で、卒業生の多くがこの建物から巣立っていった。

図書館

1967(昭和42)年にデントン館に開設されていた図書館が手狭となり、図書館建築の必要性が叫ばれて以来10年余を経て、ようやく1977(昭和52)年7月31日、新図書館が完工した。設計は図書館建築で著名な鬼頭梓、施工は竹中工務店である。
9月6日には京都市内の各大学図書館代表者など学内外の列席者百三十余名により献堂式が行われ、8日に開館した。図書館建築は、当初の地上4階建ての構想が同志社の芝生の景観、環境を破壊するものとして内外の批判を浴びたことから、敷地をデントン館、ジェームズ館前いっぱいに大幅に広げ、建物自体は地下2階として地下に埋め、屋上(地表)は芝生や樹木を植えて庭園を復元し、キャンパス内に憩いの場を確保するなど、京都市の指定する美観地区にふさわしいものとなった。
図書館の建物は床面積が約996坪で、地下2階は書庫と機械室、地下1階には閲覧室、地上階には共同研究室、ラウンジ閲覧席などがある。とくに書庫が地下2階にあるため空調装置を備え、外の湿気を十分に防ぐことに細心の注意が払われ、身体障害者用の傾斜道やトイレも備えられている。このような書庫を地下にもつ地下図書館には、開館以来見学者がひきもきらず、翌年の3月末までに国内外から二百数十団体400名近い人びとが訪れた。

梨木学舎

1978(昭和53)年、立命館大学が広小路学舎を衣笠校地に移転する計画の一環として、梨木神社の北側の鉄筋コンクリート建ての校舎「有心館」と赤屋根の日本家屋「敬学館」を売却することになった。女子大学では狭隘な校地事情を緩和するため、1978年2月、酒井康学長の時に購入の方針を決定し、岡野久二学長就任後の7月31日に5億7,500万円で購入した。同年8月下旬から1億2,500万円をかけて戸田建設株式会社により内部改修を行い、11月15日に完成した。4階建ての建物は「清真館」、木造の建物は「朝陽館」と上野直蔵総長によって命名され、1979年1月9日に献堂式を行った。
清真館には講義室、演習室、研究室、事務室、静養室、談話室などが設けられ、それまで楽真館5階にあった一般教育研究室と事務室が同館4階に移転し、4月から主に一般教育の授業がこの建物で行われた。朝陽館2階は外国人教師のゲストハウス、1階はクラブの合宿施設として親しまれた。学舎は御所や梨木神社の深い木立に囲まれ、実に閑静で恵まれた環境にあり、一般教育の教育研究にいっそうの充実と発展が期された。
その後、1986年4月の田辺キャンパス開設、88年4月からの英文学科1、2年生の田辺通学開始に伴い、梨木学舎は同年3月をもって9年間の歴史を閉じた。

栄光館の第2代パイプオルガン

同志社栄光館に初めてパイプオルガンが備えられたのは1941年の冬で、デントンの希望によりアメリカ太平洋婦人伝道局から贈られたものであった。その後四十余年を経て、老朽化と修理不能の故障のため、ついに1980年6月7日、花の日礼拝をもって引退した。新しいオルガンは1978年10月に日本楽器株式会社を通してカナダのカサバン社に発注し、2年後の1980年8月末に無事設置された。この第2代パイプオルガンはバロック時代とロマン派時代の特徴を備えた折衷型といわれ、9月5日には奉献式が盛大に行われ、鴛渕紹子教授の弾きぞめがあり、聴衆は多彩で美しい音色に魅了された。

  • 火災後の家政館
    5-1 火災後の家政館
  • 火災を知らせる朝日新聞号外 (1963年1月3日)
    5-2 火災を知らせる朝日新聞号外 (1963年1月3日)
  • 火災前の家政館
    5-3 火災前の家政館
  • 楽真館 1964年4月7日第1期工事完成。当時、同志社学園で最大の建物であった
    5-4 楽真館 1964年4月7日第1期工事完成。当時、同志社学園で最大の建物であった
  • 楽真館南側の日本庭園 ジェームズ館との間の中庭は、今も学生の憩いの場となっている
    5-5 楽真館南側の日本庭園 ジェームズ館との間の中庭は、今も学生の憩いの場となっている
  • LL教室(楽真館) 教室は最新の設備を備えていた
    5-6 LL教室(楽真館) 教室は最新の設備を備えていた
  • 衣服実習室(楽真館) 木目も新しい実習台。黒板はスライド映写スクリーンを兼備している
    5-7 衣服実習室(楽真館) 木目も新しい実習台。黒板はスライド映写スクリーンを兼備している
  • 実験室(楽真館) 卒業研究実験中のゼミ生(1965年)
    5-8 実験室(楽真館) 卒業研究実験中のゼミ生(1965年)
  • 栄光館瞑想室
    5-9 栄光館瞑想室
  • 酒井康 第6代学長(1975. 4-1978. 3)
    5-10 酒井康 第6代学長
    (1975. 4-1978. 3)
  • 家政東館 1961年以来、家政学部の実習・実験室として学生に親しまれたが、1978年に心和館新築に伴い、取り壊された
    5-11 家政東館 1961年以来、家政学部の実習・実験室として学生に親しまれたが、1978年に心和館新築に伴い、取り壊された
  • 調理室(家政東館)
    5-12 調理室(家政東館)
  • 頌啓館(現頌美館) 1967年9月竣工。音楽学科教室・研究室
    5-13 頌啓館(現頌美館) 1967年9月竣工。音楽学科教室・研究室
  • 大音楽室(頌啓館) リサイタルホールともいい、3・4階の吹き抜け構造になっている
    5-14 大音楽室(頌啓館) リサイタルホールともいい、3・4階の吹き抜け構造になっている
  • パイプオルガン(頌啓館) 1973年、大音楽室に設置
    5-15 パイプオルガン(頌啓館) 1973年、大音楽室に設置
  • 栄養指導実習室(心和館) 家政東館の実習・実験室もここに移転した
    5-16 栄養指導実習室(心和館) 家政東館の実習・実験室もここに移転した
  • 心和館 常盤寮西館跡に建築。1971年第1期工事、1978年に第2期工事が完成
    5-17 心和館 常盤寮西館跡に建築。1971年第1期工事、1978年に第2期工事が完成
  • 図書館入口付近 1977年9月6日に献堂式。地上には以前のように、緑豊かな芝生を残した
    5-18 図書館入口付近 1977年9月6日に献堂式。地上には以前のように、緑豊かな芝生を残した
  • 閲覧室(図書館地下1階) 地下式図書館は全国にも珍しく、当時は見学者がひきもきらなかった
    5-19 閲覧室(図書館地下1階) 地下式図書館は全国にも珍しく、当時は見学者がひきもきらなかった
  • 自習室(図書館地下1階)
    5-20 自習室(図書館地下1階)
  • 梨木学舎 1979年1月9日献堂式。 右が朝陽館・左とその奥が清真館。1988年まで主に一般教育の授業が行われた
    5-21 梨木学舎 1979年1月9日献堂式。 右が朝陽館・左とその奥が清真館。1988年まで主に一般教育の授業が行われた
  • 栄光館のパイプオルガン 1980年8月に2代目にあたるパイプオルガンが設置された
    5-22 栄光館のパイプオルガン 1980年8月に2代目にあたるパイプオルガンが設置された
  • パイプオルガン奉献式 壇上中央は上野直蔵総長、岡野久二学長(1980年9月3日)
    5-23 パイプオルガン奉献式 壇上中央は上野直蔵総長、岡野久二学長(1980年9月3日)


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寮の統廃合

1963(昭和38)年から1980(昭和55)年までの約20年間にはつぎのように歴史ある多くの学寮が閉寮し、四つの新たな寮が開寮した。

  閉寮した学寮 開寮した学寮
1963年4月9日   えんじゅ寮
1964年7月 プリンプトン寮、大沢寮  
1965年3月20日 栄冠寮  
1967年3月 藤井寮  
1968年3月29日 えんじゅ寮  
1969年4月11日   鶴山寮
1970年3月 常盤寮西館  
1971年9月14日   新心寮(全館)
1976年3月30日 常盤寮東館  
1977年3月20日 聖洲寮  
1980年9月6日   みぎわ寮
1980年9月 新心寮  

1964年、女子中学高校の体育館移転に伴って大沢寮とプリンプトン寮の南半分が解体された。旧第一平安寮(新島館)に大沢の寮名を残し、プリンプトン寮はふたつに分かれ、解体を免れた北半分の建物はその名称を第一プリンプトン寮と改め、旧第二平安寮を第二プリンプトン寮(前大塚総長邸)と称した。栄冠寮は1965年の3月をもって廃寮となり、鶴山寮建設のために売却した。1957年より藤井俊治氏所有の新築建物を借用していた藤井寮も1967年に閉寮した。また42年間続いた常盤寮西館は心和館建設のために解体し、1970年に廃寮となった。常盤寮東館も心和館建設のために縮小・改造し、1976年に建物の老朽化と学内の建築計画に関連して閉寮した。聖洲寮は1977年、人数が減少したことを理由に廃寮となった。

えんじゅ寮(約36名・右京区太秦安井北御所町6)

1963年4月9日、洛西の農家から5年間借り受け、個室で自炊のできる寮とした。当時の越智文雄学長がデントンの愛したスモークツリー「煙樹」から「えんじゅ寮」と命名した。1968年3月29日、鶴山寮の建築に向けて廃寮となった。

鶴山寮(162名・上京区寺町今出川上ル鶴山町)

1969年4月11日に地下1階・地上4階の鉄筋コンクリートの建物が竣工し、全館にはスチーム暖房が入った。地名より鶴山寮と名づけられた。1989(昭和64)年に閉寮。

新心寮(212名・学内)

年々地方からの学生が増加したため、デントンハウスのあった所に建てられた鉄筋コンクリート4階建ての建物で、寮の名称はローマ12:2の「心を新たにすることによって造りかえられ」から命名された。1957年の第1期から第4期までの工事によって1971年9月14日に全館が完成し献堂式が行われ、これまでの旧館・新館が事実上統合された。1972年4月の時点では、学内2寮(新心寮・常盤寮)学外2寮(聖洲寮・鶴山寮)の寮生が全学生数の18パーセントを占めていた。1976年6月には、新心寮前の広場に日本庭園が完成し、教育環境の整備と学生の精神生活への配慮がなされた。
その後、かねてからの学生会の大学会館建設の要望を受けて、新心寮を大学会館および女子大学の施設の一部として使用することになり、新心寮は1980年度途中で廃寮となり、学内寮は本学からすべてなくなった。大学会館は「新心館」として11月より総額1億8,000万円をかけて改修し、1981年4月にオープンした。

みぎわ寮(104名・上京区今出川下ル東入ル梶井町)

新心寮の廃寮に伴い、聖洲寮跡に鉄筋コンクリート建て地下1階・地上4階の建物が1980年8月末に完工し、9月6日に献堂式を行った。設計は渡辺建築設計事務所、施工は鹿島建設で、3億9千万円の建築費をかけ、当時の学生寮として望み得る最良の近代設備を備えたものとなった。新寮の名称は、詩篇23:2より「憩いの水ぎわ」の意味から「みぎわ寮」と命名された。
この年、学寮は新心寮の廃寮によってみぎわ寮と鶴山寮の2校外寮のみとなり、また学寮運営の基本理念である「学寮規則」を全面改正するなど、女子大学の学寮は名実ともに新しい時代に入った。

  • 栄冠寮 1965年3月廃寮後、売却された
    5-24 栄冠寮 1965年3月廃寮後、売却された
  • 聖洲寮 1977年閉寮
    5-25 聖洲寮 1977年閉寮
  • えんじゅ寮開館 1963年に自炊のできる寮として太秦に開寮(1968年閉寮)。中央は久次米哲子、大塚節治総長、前列に大塚肇
    5-26 えんじゅ寮開館 1963年に自炊のできる寮として太秦に開寮(1968年閉寮)。中央は久次米哲子、大塚節治総長、前列に大塚肇
  • 学内寮の配置図 (1957年)
    5-27 学内寮の配置図 (1957年)
  • このころ、全学生の35%が寮生であった
    1967年 このころ、全学生の35%が寮生であった
  • 学内寮は新心寮のみであったが、年度途中で廃寮となった
    1980年 学内寮は新心寮のみであったが、年度途中で廃寮となった
  • 藤井寮 1967年閉寮
    5-28 藤井寮 1967年閉寮
  • 鶴山寮 1969年開寮。田辺校地への展開に伴い1989年閉寮
    5-29 鶴山寮 1969年開寮。田辺校地への展開に伴い1989年閉寮
  • 新心寮献堂式 左から秦孝次郎理事長、住谷悦治総長、越智文雄学長(1971年9月14日)
    5-30 新心寮献堂式 左から秦孝次郎理事長、住谷悦治総長、越智文雄学長(1971年9月14日)
  • 新心寮 1957年の第1期から4期にかけて増築工事が行われ、1971年に全館完成
    5-31 新心寮 1957年の第1期から4期にかけて増築工事が行われ、1971年に全館完成
  • 新入生に関する資料:学生別寮生の人数 1968年度4月25日現在(5月8日教授会資料)
    5-32 新入生に関する資料:学生別寮生の人数 1968年度4月25日現在(5月8日教授会資料)
  • みぎわ寮 1980年に聖洲寮跡に新築
    5-33 みぎわ寮 1980年に聖洲寮跡に新築
  • 寮室(みぎわ寮) 椅子式机、畳敷きベッドの洋室タイプ
    5-34 寮室(みぎわ寮) 椅子式机、畳敷きベッドの洋室タイプ
  • 寮生活 1960年ころ。畳の和室、文机、蛍光灯の電気スタンドで勉学する寮生
    5-35 寮生活 1960年ころ。畳の和室、文机、蛍光灯の電気スタンドで勉学する寮生
  • 寮生活 1960年ころにはテレビが寮に設置された
    5-36 寮生活 1960年ころにはテレビが寮に設置された



記念写真誌 同志社女子大学125年