寮生活、寮教育
ヒバードが1年で学長職を退いた後、前女専校長片桐哲が第2代女子大学長に就任した。熱心なクリスチャンであった片桐は、リベラルアーツの教育理念をキリスト教に基づく人格的な交わりに求め、教師と学生、学生と学生が心を開いてともに語り、ともに学び合う機会を多く準備することが肝要と考えた。そのため、少人数教育と寮における全人教育に力を注いだ。同志社女子大学の寮生活、寮教育のルーツは「二階が寮、一階が教室」という造りの創立時の京都ホーム(同志社女学校の最初の校舎)にまでさかのぼることができる。教室だけでなく毎日の生活を通して、キリスト教的感化を与えクリスチャンを育てることが京都ホーム創設の大切な目的であった。以来ずっと、学寮は教育機関と位置づけられ、舎監はもちろんクリスチャン女性であり、教員有資格者であった。キリスト教主義による人格教育を実行するために舎監の役割は大であると考えられたからである。女専校長松田道が舎監(寮務主事)を兼任した時期もあったし、舎監はまた女専時代には教授会メンバーとして定例教授会に出席していた。
片桐も、そして、つぎの第3代学長瀧山徳三も同志社女子部における学寮の重要性を十分に認識していた。そこで、戦後の苦しい生活が徐々に安定する中で、少しずつ寮の数を増やしていった。女専時代からあった東西常盤寮(85名と70名収容)、プリンプトン寮(約20名)、大沢寮(約50名)、洗心寮(約25名)、1948年から開設した銅駝寮(約15名)、桜橘寮(約25名)に、片桐は1951年香柏寮(約30名)、52年栄冠寮(学外に民家を購入、約25名)を加えた。1953年4月には瀧山も相国寺の禅門学院を借り受けて霜雪寮(約35名)を開設、同年9月には河原町今出川に聖洲寮(約80名)を新設した。そのほか1954年には霞会館寮(約15名)、清和寮(約30名)、1957年には藤井寮(約30名)などを借り受けて、入寮希望者の増加に対応しつつ、寮の充実に努めた。
建物そのものにユニークな歴史を持つ寮を紹介しておく。
- 洗心寮── もと宣教師館。窓によろい戸のある木造洋館。
- 香柏寮── もと総長公邸。高い天井、ゆったりした階段、美しい床は住む者の心を豊かにした。和風別館付。
- 桜橘寮── もと桜橘財団のもの、公卿の宿所であった。立派な邸宅。
- 銅駝寮── 同上、公卿の集会所であった。桜橘寮とは小さな廊下でつながっていた茶室付御殿。まわりを1間の濡れ縁が囲み、柱の釘隠しには桃の形の金具がついていた。昔は庶民の入れなかった所。
- 霜雪寮── 相国寺の禅門学院。仏壇を閉じ、大広間を仕切って小部屋にした。
- 霞会館寮─ 旧華族の宿泊所。2階部分のみ借り受け、自治寮とした。
- 清和寮── もと佐伯病院看護婦宿舎を借り受けた。
寮における宗教教育は徹底していた。毎回の食事および寮内での集会はすべて讃美歌と祈禱で始まる、同志社教会への聖日礼拝に出席が義務づけられる、日曜日の夕方には戸外で讃美夕拝が持たれる、また聖書研究会も規則的に行われるなどである。寮生にとって、同志社教会は日ごろ壇上でしか見ることのできない総長・学長と席を並べて礼拝し親しく交わることのできる場であった。そのほか楽しいキリスト教行事として多くの寮生の記憶に残っているものに教職員を招いてのクリスマス祝会があった。食堂に全寮生が集合して会食ののち、招待客である教員自らがスタンツを演じて学生たちを楽しませるのが新制大学初期のころの慣わしであった。また、突然夜の暗闇の中から響いてくる同志社大学男子学生による女子寮前でのキャロリングは、いまなお忘れられないロマンティックな心象風景である。そののちしばらくして、女子大寮生によるキャロリングも開始された。比較的近くの市内在住教職員の家に限定されたが、寮生は数曲のクリスマスキャロルと手づくりのクリスマスカードを、迎える側ではプレゼントを用意して、ともにメリークリスマスの交換をした。なかには家に招き入れ茶菓をもてなす宅もあり、寒い夜にひとときの暖をとることのできる暖かい思い出となった。
寮での日常生活は、ママ・ベビーの呼称で呼びあう2~4人の同室者(上級生と下級生)が、つぎの部屋替え(半年後)までの期間、助け合って共同生活をすることになる。毎朝6時、当番の学生の鳴らす鐘の音で起床し食堂に集まり朝食。昼食も寮食堂でとり、午前・午後と授業時間は教場で過ごす。夕食後は散歩などして寛いだ後、7時から9時までの黙学時間に授業の予習・復習をする。その後、いちばんの楽しみのお茶の時間を各室でお菓子を食べながら談話する。就寝・消灯は11時、それ以後勉強したい人は、黙学室に移ってか、自室で他の人の迷惑にならないようにして勉強を続けるというのが、だいたいの日課である。このようにして2~4年間生活をともにする寮の友人は、学生時代互いの郷里を訪ね合うなどして親交を深め、生涯にわたる友人として長続きする場合が多かった。
デントン記念館
同志社女子大学が戦後初めて持った校舎が、女子部のために60年間貢献したデントンを記念してのデントン記念館であったことは、関係者にとって実に感慨深いものであった。それは、同志社が創立80周年を迎える記念の年であり、同時に、女子大学では学生数が1,300名を超えるという事態に至って設備の補充が急がれていた折でもあった。
デントン記念館は1955年4月着工、10月に竣工の地下1階・地上3階の鉄筋コンクリート造りであった。屋上の四囲には瓦葺屋根の倉庫が設けられたが、その中央部分は遊歩場として学生たちの祈りの場、語らいの場となることが期せられていた。外壁は従来の女子部の赤煉瓦と違って、スペイン風の明るい色調のタイル張りで、設立場所はジェームズ館の西方、かつては園芸場があり、戦時中は芋畑、戦後はテニスコートになっていた場所である。建築費の約5千万円は、ジェームズ財団からの2万5千ドルの寄付、アメリカのデントン関係者からの募金約70万円、同窓会バザーの売上金の寄付に加えて、同窓や学生の父母の協力による学債1,200万円、私学振興会からの借入金1,000万円、一般会計からの繰り入れ300万円等が充てられた。館内には、本学としてもっとも必要に迫られていた学生図書室、教授研究室、学生食堂などが備えられ、3階には会議室として使用される。
「近く見上げるであろうデントン記念館こそ、先生の人格、先生の理想の現われとして多くの学生を抱擁し、真に同志社精神育成の場とせられんことを深く念願」すると英文科教授中村貢は述べている(『同志社創立八拾周年記念誌』)。
純正館(体育館)
デントン記念館のつぎに建築されたのが体育館である。竣工費8,800万円を投じて1961年着工、翌62年に竣工した。場所は、洗心寮、桜橘寮、銅駝寮、香柏寮があった場所で、それぞれ風情のあった寮が取り壊されたり移転された跡地に建てられた。大塚節治総長によって「純正館」と命名された。讃美歌452番「ただしく清くあらまし」に由来している。
女子部の体育館としては、1910(明治43)年に女専・高女部兼用の雨天体操場(現在の女子中高希望館の位置)があったが、新制大学として出発して13年目にようやく女子大学専用の体育館を持ったことになる。女学校の雨天体操場が礼拝・講演会・入学式・卒業式の会場としても利用されたように、純正館も多目的に使用された。もともと1階・地階には普通教室が併置されていたし、2階の体操場も本来の運動競技のためだけでなく、謝恩会その他の学校行事、各種の懇親会などに用いられた。
キリスト教主義女子教育における体育の意義と重要性について考察し、その理念を新しい時代にふさわしく構築し実践しようとしていた体育担当の秦芳江が、越智文雄学長に依頼して選ばれたラテン語の聖句、“Iris erat similis visioni smaragdinae”「(かつ御座の周囲には)緑玉のごとき虹ありき」(ヨハネ黙示録4:3)が体操場正面の壁面上部に掲げられている。越智は「緑玉」(エメラルド)に似た「虹」が神の御座をとりまいている壮麗な姿を、若き日にまぼろしとして心に刻んでもらえたらと考えて命名した(越智文雄『同志社栄光館より学びしもの』)。同志社女子大学の建物の中で、ラテン語の聖句が刻まれているのはここだけである。この体育館建設に関係してもうひとつ記録に留めておくべきことは、今出川通に面して昔からあった土塀を壊して生垣にしたことである。土塀の修理代と生垣の新設代がほぼ同額とのことで、生垣にかえられた。その時、今出川キャンパスの東南角に2間(4メートル)弱の土塀が修復して残された。