同志社女専の選択
太平洋戦争終結後の混乱期をなんとか乗り切る目途が見え始めたころ、日本国政府はGHQ(連合軍総司令部)の指導のもとに、1947年3月31日に新たに教育基本法を公布した。それは長い間日本の中・高等教育を支配していた男女別学の理念ではなく、「教育において、男女共学は認められなければならない」との基本理念に基づくものであった。1947年のこの学制改革に伴って、既存の中学校、高等女学校、各種実業学校などの中等学校、および専門学校、高等学校、大学などの高等教育において、多少の混乱を経たものの、大方は共学となった。
しかし、戦後の民主主義思想を背景にして、男女の大学教育における機会均等とともに、女子の教育機会を拡大・強化する必要があるとの認識が高まり、女子大学および女子短期大学も日本各地に創設された。また、戦前から女子専門学校として、女子の高等教育に力を注いできた学校の中には、男尊女卑思想が根強く残っている日本的風土の中で、これまでの役割をいっそう強化するために、あえて女子大学のままに留まる学校も少なくなかった。
このことに関しての同志社女子専門学校の選択は、他の女子専門学校ほど容易ではなかった。なぜなら、同じ学園同志社の中には、時代に先駆けて女子の入学を認めていた同志社大学があり、それが総合大学として共学制を採用することは当然のことであったからである。そこで女子専門学校当局者に示された道は、同志社大学の一学部に吸収合併されるか、女子短大にするか、あるいは同志社大学とは違った特徴を持つ女子大学として存続するかの中のいずれかであった。
同志社女子専門学校の選択は第3番目であった。同志社の長い女子教育の伝統の中で、創立時より同志社女学校を精神的・物質的に援助してくれたアメリカの友人たちに対する責任があったからであり、これまで日本の女子教育を支えてきたとの自負があったからである。幸い、当時の湯浅八郎総長は長い間アメリカ生活を経験し、アメリカにおける女子大学の存在理由およびアメリカ人の心情に通暁した人物であった。それゆえ、学園内にあった反対意見を押さえて女子大学の存続を擁護できる最適の人でもあった。
リベラルアーツ・カレッジとしての新しい出発
つぎに考えられねばならなかったことは、同志社大学とは違って特殊な意味を持つ女子大学とは、いったいどんな大学であり得るのかであった。その時点で、湯浅総長と片桐哲女専校長との間で一致していたのは、そのような新しい大学の責任者となることができるのはヒバード宣教師(Esther Lowell Hibbard)以外にないということであった。ヒバードは最初は固辞したが、熟慮の末、1年間だけとの条件付きで受諾した。しかし、女子大学の「新生」なので、出発は1年遅らせて周到な準備をすることになった。早速ヒバードを中心に「女子大学設置準備委員会」――メンバーは同志社大学教授のグラント(Robert Harvey Grant)、ケーリー夫人(Alice W. Cary)、女専教授としてはクラップ(Frances Benton Clapp)と加藤さだ──が構成され、特色ある女子大学のさまざまな可能性が探られた。
その結果、スタートすることになったのがリベラルアーツ教育を重視する大学であり、片桐哲はのちにその学部を学芸学部と訳した。カリキュラムの特色としては「ヒューマン・リレーションズ」(人間関係)を1年生におくこと、当時は女性としてだれでも知らなければならないと考えられていた家事について幅広く学ぶために「家政学概論」(総合科目)を必修とすること、また制度としては主専攻・副専攻を設けることなどが合意された。主専攻と副専攻の課程を設けたのは、せまく専門に偏らず、広い学問領域において、真に人間を自由ならしめる教養の教育が意図されたからである。校名の英語名もDoshisha Women's College of Liberal Artsと決まった。
つぎに、準備委員以外の女専教師は、リベラルアーツ大学とはいかなるものであるかを学習するために、グラント教授のリーダーシップのもとで、週1回計8回の講習を受講した。リベラルアーツの大学というのは、「一つの学問を余り深く掘り下げないで、広く履修した上で、主要科目一科目を選んで専門とする」というもので、設置される専攻は多いほどよかったといえるが、人材的・経済的・設備的理由からも、これまでに下地のあった英文学・家政学のほかに、新しく社会学と音楽専攻が構想された。
4専攻の設置理由
それぞれの専攻を設けた理由は「同志社女子大学設置認可申請書」(1948年7月26日付)の中で以下のように記されている。
- 1. 英文学:同志社全体としても同志社女子専門学校としても久しき歴史と伝統を有して居り、特に同志社大学と密接な提携をすることにより、教授・講座・図書設備等を利用することができる特徴があり、今後愈々広く深く研究されようとしている斯学に対する有能な人物を輩出することを期している。
- 2. 音楽:本大学に於て音楽は特殊職能教育を与えることを主眼とはせず音楽を一教養として課することを目的としている。従来同志社は音楽を重んじ学生会等に於ても音楽の研究団体が多いばかりでなく、女子部に於ては創立以来内外の専門教授を擁し声楽及び器楽の指導に力を注いでおり、幾多の音楽家及音楽的教養に富める女性を輩出した。設備としても昭和十六年以降我国に於て最も優秀なパイプオルガンを有し此数年間定期演奏会等に於て社会に貢献している所も多い。
- 3. 社会学:将来各種の社会事業が愈々重要視される時に当り従来この方面に幾多の指導者を輩出し来たった同志社に於て本大学は同志社大学との密接な連携により幾多の便益を得つつ女子の指導者の輩出の為堅実な発達を期し得るのである。
- 4. 食物学:従来同志社女子専門学校に於て家政科中食物学は重要な部門を占めていた。従って現在女子専門学校に有する教授設備等はそのまま大学の有力な部分として転換せしめることが出来るのであり、将来この専攻に更に児童学専攻を加える事によって女子大学としての特色を愈々発揮せしめる計画である。
同申請書の中には、将来計画として、上記の児童学専攻のほかに、1954(昭和29)年度より図書館学専攻を設けること、さらに学科課程に関することとしては、1960(昭和35)年度より音楽専攻部門中にパイプオルガン科を加えることも記されている。
残念ながら、社会学専攻については「社会学専門の博士号を持った教授がいないという理由」によって認可されなかった。しかし、音楽専攻に関しては、女専時代以来、音楽宣教師として来日していたF. B. クラップ教授を中心に、スタッフの充実と技術のレベル・アップが図られていたので、問題はなかった。ただし、ここで目標とされた音楽教育は、音楽をリベラルアーツの中で人間形成のための教養のひとつとして、広い見地から学ぶことであり、宗教音楽が必修科目としてカリキュラムに入れられたのは当然であった。
同志社女子大学の基本理念
「同志社女子大学認可申請書」の冒頭には、大学設置の目的が以下のごとく明記されている。
本大学は教育基本法及び学校教育法に基き学芸の大学として学術を教授研究すると共に明確に思考し有効に思想を発表し諸種の価値を判断識別する能力を育成しあわせて基督教の理想に遵ひ円満な人格を涵養すると共に国際的民主主義社会に於て建設的に且つ責任をもって生活し得る女性の養成を目的とする。
これは「長い、切れ目のない文章で」あるが、新しくスタートを切る同志社女子大学の教育目的を、関係者が「1年かかって研究した結論」であった(『しばぐさ』3)。それを国語教師の加藤順三が文章化したものであるが、学芸学部の性格が見事に表現されている。要するに、学問研究だけでなく、広い視野に立って物事を思考しかつ的確な判断ができる女性、根底にはキリスト教の愛の精神を身につけ、国際社会の中で立派にその役割を果たすことのできる女性を育成するというのであり、それから50年が経ち、ますます国際化されていく現代社会においてもっとも必要とされている女性を視野に入れていたと言えよう。
また、この時点において、創設期同志社女学校時代と同じく、女性のロールモデルは女性との考えに基づいてか、学長兼学部長のヒバードをはじめ、英文学専攻主任加藤さだ教授、音楽専攻主任クラップ教授、食物学専攻主任久次米哲子助教授、学生主任福原春代助教授と、中心スタッフは女性で構成されていた。
新制同志社女子大学が構想されたときの、この構想と内容のユニークさ、幅広さ、時代の先取性は驚くべきである。その他、教師と学生の連絡を密にするアドバイザー・アドバイジー制度、オフィスアワーの実施、現在多くの大学で試みられているフレッシュマン・キャンプに相当する「プレイデー」、学寮を希望しながら下宿生活を余儀なくされた学生に対する「ビッグシスター・リトルシスター」制度など、さらに大学大綱化の中で見直されている科目名および制度の多くが、この時点の同志社女子大学の教育システムの中で構想され、実現されていたのである。女専時代からの歴史を持つ修養会(リトリート)、サマーキャンプも女子大学に継承された。
しかしながら、ヒバードたちの目指した理想の形の新制同志社女子大学の行路には多くの困難が待ち受けていた。それは、リベラルアーツ・カレッジの理念が日本の教育界の伝統に根を下ろしていなかったことと、この理念を実現しようとすると膨大な経費がかかることのためであった。同志社女子大学の財政基盤はそれ程盤石なものではなかった上に、法人同志社の理事の中には、共学大学のほかに女子大学を作るのは、同志社にとっていわば一種の贅沢であり冒険であると見る者もいた。それゆえ、「女子大学を設立するならば独立採算」をと宣告されていたので、女子大学の首脳陣は背水の陣を敷いて事に臨んだ。
開学初年度の前期試験終了後、高等学校に対する学生募集と校友・同窓を対象とした募金のために「宣伝計画」が組まれ、8名の教員が10月7日より16日まで、奈良・和歌山・滋賀・三重の各県および北陸・阪神地方の百校以上を回った。また、音楽専攻では、学校と学科の宣伝のため女子大学長ヒバードと女専校長片桐に引率されて、1949年から51年にかけて音楽専攻教員と学生は西日本各地や中部地方へ演奏旅行に出かけた。学生数の確保を図ることが第一であったからである。
北九州及岡山へ女子大紹介の為巡回旅行──女専片桐校長並びに女大ヒバード学長を始め加藤テイ、加藤まさ子両先生、ヴィオリン鴛渕卲子先生、ピアノ女大一年杉原節子さん等一行六名は、同志社卒業生の結束を固め新たな制度の下に出発した女子大紹介の目的をもって、去る十月八日より十六日まで北九州方面へ講演及び音楽会の巡回旅行を行い、各地とも同様交友会の甚大なる尽力と協力とにより十分なる成果を上げたが、次いで十一月三日より八日まで同じく岡山方面へ講演音楽の巡回旅行を行い同様な成果を上げた。なお岡山方面巡回旅行の謝礼二八九〇〇円は女子大の基金にあてられる(『同志社女専女大新聞』2)。
さらに当時はまだ、女性が高等学校卒業後、もう4年間大学生活を送るのは婚期に差し支えるとの考えが一般的であったし、家計にとっても4年間の授業料負担は苦しかった。そこで、同志社女子大学は4年制大学でありながら、「2年修了制度」を採用した。それは、2年間に所定の単位を履修すれば修了証書(中学校二級教員免許状も)を授与するという制度であり、入学希望者の増加に寄与する方策であった。実際、初期の段階では希望者が多く、1952年に86名の第1回修了者を出して以来、1962年までの修了生は毎年百名を超えていた。
DWCLAのユニークなカリキュラム
リベラルアーツ・カレッジとして新しい出発をした同志社女子大学のカリキュラム上の大きな特色となる科目に「ヒューマン・リレーションズ」(人間関係)があった。日本の大学の中では初めての設置科目ということで、文部省から審査員が来て、瀧山徳三教務主任がアーモスト館に説明に出向いた。その説明を聞いて審査員たちは「妙な科目ですが、同志社女子大学になら置けるでしょうから、やってごらんなさい」(『しばぐさ』第3号p.24)と言われたという。瀧山によると、「人間関係」科目というのは、「倫理学でも宗教学でも教育学でも心理学でもないが、うまくやれば非常にいいもの」で、だれかが全体に講義をし、その講義には討論を受け持つ教師も出席して講義の内容を知っておく、それからバラバラに小分けになって討論するという組み立てが考えられていた。
『学生必携』(現在の「要覧」)によると、コースの内容は以下のごとくであった。
人間は如何なるものか、如何なる可能性を有し、如何なる方面の成長発達を遂げる事に依って円満な人格者となり得るか、家庭に於いて学校に於いての対人関係、結婚に関しての人間関係、市民として地域社会、共同社会に於ける人間関係、広く世界市民としての他国民、他民族間の関係等に就いて学ぶ。
当時すでに世界市民という言葉を使って、単に家庭婦人としてだけでなく社会と関わりを持ち社会の中に役割を持つ女性像を想定した人間関係に目を向けた科目であり、確かに新生女子大学の中核となるものであったことがわかる。
しかし、この科目に対する学生の評価ほど両極端に分かれるものはなかった。ある学生は科目の真意を十分に理解して、卒業後これほど役立った科目はないと高い評価をしたが、別の学生は授業中の退屈さのみが印象的であったと不平を言った。この科目設置の意義が喧伝され、その上必須4単位科目であったことも、学生の注目を引くことにつながったと思われるが、早い時期から、『学生新聞』の投書欄で取り上げられたり、特集記事として扱われたりした。
講義は余りにも平易だ。このような常識的な事は大学生であるなら誰しも一応、心得ている。問題は、現実の社会に於て様々な矛盾とぶつかって行く時、そうあるべきと判っていながら、なお、そうであり得ない自己と他人をどう調和させて行くかにある。平面的、常識的な人間関係でなくて、もっと奥行きのある、生々しい人間関係に就いて、先生の数多い人生体験に基づいて教示して頂きたい(「このままで良いのか──『人間関係』に再検討の要──」『同志社女子大学学生新聞』第7号、1955年2月10日)。
などと、決して不真面目でない学生からの手厳しい注文もあった。概して、講義と討論がうまく噛み合わされない不満、講義内容の凡庸さ、マンネリズム、その上に、リーディング・レポートを強制されることによって読書が苦痛になるという不満等々があったようである。瀧山の「うまくやれば非常にいいもの」の表現は言いえて余りあるものがあったと言えよう。
つぎに、本学の教育の基本となるキリスト教教育としては、毎朝の礼拝の時間、春秋2回の修養会、夏期のキャンプ、リーダーズ・トレーニング・キャンプ、クリスマス礼拝など、さまざまなプログラムが用意されていた。
1955年当時の、毎朝の礼拝時間(10時より15分、栄光館ファウラー講堂において)のプログラムは以下のとおりであった。
- 月曜日
- 学長の講話
- 火曜日
- 宗教主任の講話
- 水曜日
- 同志社教会牧師の講話
- 木曜日
- 音楽礼拝
- 金曜日
- 本学諸教授の講話
- 土曜日
- 学生礼拝
なお当時の教職員および学生のキリスト教徒数は、教職員83パーセント、学生14パーセントであった(『同志社創立八拾周年記念誌』)。
『同志社女子大学学術研究年報』
教員の研究体制としては、前述のとおり、1936年女専時代から「教授研究発表会」(女子大学になってからは「学術講演会」と名称変更)を発足させ、口頭による研究発表の場は用意されていたが、女子大学になって初めて研究機関誌として『同志社女子大学学術研究年報』(通常『年報』と略称)が発行されることになった。第1号は女子大学が発足した翌年度の1950年に出版され、以来毎年欠かさず刊行されている。
この機関誌の特色は、寄稿対象者が専任教員全員であるため、専門を異にする論文を掲載する総合研究誌となったということである。しかし、頁数増加で製本に支障が生じるようになったことや、分野別にする方が研究者の利便となることもあって、1973年からは3分冊(学芸学部・家政学部・一般教育と専門によって分冊)され、さらに1986年からは、日本語日本文学科が加わり4分冊になって、現在に至っている。
女子大学は発足当初より、英文・家政・音楽専攻ごとに卒業論文発表会(音楽は卒業演奏会)を設け、学生たちの研究意欲の向上を計った。
また、女専ならびに女子大学の学生たちも、それぞれ新しいスタートを記念して『学芸』(1947、49年)、『英文学研究』(1958年)などの創作・研究誌を発行した。