ウーマンズ・ボードと同志社女学校

同志社女学校は京都に建てられた一番古いキリスト教主義女学校であるにもかかわらず、規模において圧倒的に大きい同志社英学校(同志社大学の前身)の陰に隠れて存在があまり注目されず、これまでその独自の歴史を跡づける作業がなおざりにされてきた。
そこでまず、同志社女学校の存立に無くてはならないものであったウーマンズ・ボードの組織および働きを追いつつ、草創期同志社女学校の姿を明らかにする。

ウーマンズ・ボードの日本伝道

250年に及ぶ幕府の鎖国政策の終結を待ちかねて、プロテスタント・キリスト教が日本への上陸を開始したのは、1859(安政6)年のことであった。これに対して、海外伝道においてはパイオニアであったアメリカン・ボード(American Board of Commissioners for Foreign Missionsの略。アメリカにおける海外伝道局の中でもっとも古く1810年の設立で、同志社とはもっとも関係の深い教派。通常、会衆派または組合教会派と訳される)の日本伝道開始は1869(明治2)年、他教派に比べて10年遅れとなった。しかし、この遅れは女性宣教師派遣事業に焦点を合わせて考えれば、むしろ「時にかなった」年代であったとも言える。なぜなら、明治期、日本における女性と宣教について考察する場合、その働きを可能にしたのは、教派を問わず、アメリカ本国での女性団体の支援があったからであり、その女性団体運動というのは南北戦争後の1865年以来、アメリカにおいて急速に力を増した運動であったからである。しかも、その時期が日本の近代化とちょうど重なったということは、アメリカン・ボードの日本伝道を、とりわけ女性宣教師派遣をめぐって二重、三重の意味で活気あるものとした。すなわち、女性宣教師を受け入れる側の日本に差し迫った需要があったことがアメリカで上昇気流にあったキリスト教女性団体の運動にいっそう弾みを付けることになり、両者が相まって女性の働きの場を拡大し、その影響力を増幅させ、その重要性を高めていったといえる。

  • アメリカン・ボード日本ミッションの宣教師たち 神戸英和女学校にて 
(1879年6月23日) ウーマンズ・ボードの支援を受けて日本ミッションに在籍していた 女性宣教師たち(1879年6月現在)
    1-1 アメリカン・ボード日本ミッションの宣教師たち 神戸英和女学校にて 
    (1879年6月23日)
    ウーマンズ・ボードの支援を受けて日本ミッションに在籍していた 女性宣教師たち
    (1879年6月現在)

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ウーマンズ・ボード組織の結成

ウーマンズ・ボードは1868年1月、最初は、ニューイングランド女性海外伝道会の名称で超教派の組織として発足した。しかし、同年9月の例会で規約改正を行い、活動をニューイングランド地方に限定することをやめ、名称もウーマンズ・ボード(Woman's Board of Missions の略。アメリカン・ボードと協力して活動する女性伝道局。アメリカにおける教派別女性伝道局としてはもっとも古く1868年の設立)と変更し、どこに住んでいてもアメリカン・ボードと協力して活動する女性たちの集まりを指すこととした。組織がアメリカ中に広がったことにより、ウーマンズ・ボードは3地域―東部・中部・太平洋―に分化して活動をすることになった。同志社女学校の最初の校舎の募金を提唱したのは、ウーマンズ・ボード全体の事業としてであったが、その後は主に太平洋女性伝道局(Woman's Board of Missions for the Pacific)が同志社女学校を支援することになる。具体的には、女性宣教師個人に関わるすべての経済的・精神的援助および宣教師の働く機関(たとえば学校・病院など)への資金援助である。
ウーマンズ・ボード団体規定の基本となる3本の柱を要約すると、以下のようになる。

  1. 1. 主たる役割は、アメリカン・ボードと協力して独身女性宣教師の海外派遣を支援し、異教の国の女性と子供のための仕事に必要な資金を集めること。
  2. 2. 国内においては、全国のアメリカン・ボードおよびウーマンズ・ボード部会を通して宣教師に関する情報を広め、宣教(伝道)精神を涵養すること。
  3. 3. とくに子供を対象に宣教の仕事に対する興味を喚起せしめ、子供たちが早くから募金に参加できるよう訓練すること。

アメリカン・ボードの派遣する宣教師は創立当初より男性に限られ、女性はその配偶者のみであった。しかし、ウーマンズ・ボードの発足により初めて独身女性宣教師の派遣が可能となった。日本伝道において、女性に対する伝道や女学校創設が重要な事業になっていくにつれ、独身女性宣教師の働きの場は拡大し、彼女たちを支援するウーマンズ・ボードの役割はますます増大したのである。

  • ウーマンズ・ボードの支援を受けて京都ステーションに着任した女性宣教師とその支援部会一覧表(1875-90)
    1-2 ウーマンズ・ボードの支援を受けて京都ステーションに着任した女性宣教師とその支援部会一覧表(1875-90)
  • アメリカン・ボード作成日本地図(『女性のための生命と光』1886年6月号掲載)
    1-3 アメリカン・ボード作成日本地図
    (『女性のための生命と光』1886年6月号掲載)

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機関誌『女性のための生命と光』

アメリカ中に広がる組織をまとめて動かしていくには、思想伝達の手段として機関誌の発行が必須であった。それが『女性のための生命と光』(Life and Light for Woman , 1869年3月第1巻発行。創刊号から1872年Vol2No8まではLife and Light for Heathen Women. 最初は旬刊、1873年から月刊)であり、この機関誌を通して海外に派遣している宣教師の消息を伝播し、資金を徴収するための組織づくりの活性化を計り、会員相互の連携を密にするなどした。
折しもウーマンズ・ボードはアメリカ独立百周年記念の募金活動を実施中であったが、日本の京都に男子のための英学校がアメリカン・ボード支援のもとに創設されることを聞いたウーマンズ・ボード委員会は、『女性のための生命と光』誌上で、記念募金の目標を「京都の女学校建設のため」とすることを発表し、そのための一大キャンペーンを繰り広げた。このことは日本にあって、「英学校とペアの関係にある女学校の設立」を願っていた者の思いの届かなかったところで企画されたことでもあったので、関係者の喜びをいっそう強めるものであった。募金額は六千ドルを超えた。
この募金があったからこそ、1878(明治11)年同志社女学校は京都御苑内の柳原前光邸から二条邸趾に移って自前の校舎を持つことができた。御所と相国寺の間の広々とした敷地に建てられたこの校舎は、洋風を加味した瀟洒な日本風の建物で、白壁と濃褐色の木製ベランダが美しいコントラストをなしていた。
宣教師文書の中では、同志社女学校が正式に「同志社分校女紅場」という名前を持つ前から、またその後も、しばしば「京都ホーム」(Kioto Home:宣教師文書―アメリカン・ボードやウーマンズ・ボードの宣教師たちが本国へ定期的に送る報告書簡―の中での同志社女学校の呼び名)と呼ばれていた。それは京都ホームが寄宿学校であったからである。建物の造りは2階が外国人教師用寝室2室と女生徒用居室22室(約45人収容可)、1階部分には教室・談話室兼集会室・食堂と来客用寝室があった。談話室兼集会室には京都ホームの初代女性宣教師スタークウェザー(Alice Jannette Starkweather)のオルガンが置いてあり、その真上の壁面には、募金の芳名録(“Roll of Honor”京都ホームへの寄付者の名前を書いた)が掛けられていた。芳名録の図柄は、上部に十字架、その両側に聖句(ヨハネ3:16)が英語と日本語で書かれており、生徒たちは感謝の思いでいつも見上げていたという。募金者の中には、新島の恩人アルフィーアス・ハーディ夫人(Mrs. Alpheus Hardy)など個人の名前も若干見られるが、ほとんどはウーマンズ・ボードの下部組織である部会と、明らかに教会学校園児の集合と思われる可愛らしい名前の募金者グループ名(We Girls, Our Boys, Little Elfieなど)である。同志社女学校の初めての校舎がアメリカの女性と子供たちによって寄贈されたことは記憶に留めておくべきである。
ウーマンズ・ボードの日本伝道は、今から百年以上前に海を隔てた2国間の女性たちがキリスト教信仰を通しての女性の解放を求めて、出会い、刺激しあい、そして喜びと悲しみを分かちつつ、その輪を広げていった意義深い運動であった。ウーマンズ・ボードの資金のおかげで存立することのできた同志社女学校は、当初から国際性を持った学校であったのである。

  • 『女性のための生命と光』1870年6月号「子供欄」内扉
    1-4 『女性のための生命と光』
    1870年6月号「子供欄」内扉
  • ウーマンズ・ボードの機関誌『女性のための生命と光』1890年3月号表紙
    1-5 ウーマンズ・ボードの機関誌 『女性のための生命と光』1890年3月号表紙
  • 『女性のための生命と光』1900年4月号、内扉
    1-6 『女性のための生命と光』
    1900年4月号、内扉
  • 『女性のための生命と光』1876年4月号 アメリカ独立百周年募金を「京都ホーム建築のための6,000ドル募金」にすると目標を明確にして募金を訴えている記事
    1-7 『女性のための生命と光』1876年4月号
    アメリカ独立百周年募金を「京都ホーム建築のための6,000ドル募金」にすると目標を明確にして募金を訴えている記事
  • 『女性のための生命と光』1881年3月号表紙
    1-8 『女性のための生命と光』
    1881年3月号表紙
  • 同志社女学校最初の校舎 ウーマンズ・ボードの募金によって1878年7月、常盤井殿町二条邸跡に建立(版画、作者不祥)
    1-9 同志社女学校最初の校舎 ウーマンズ・ボードの募金によって1878年7月、常盤井殿町二条邸跡に建立(版画、作者不祥)
  • 正面から見た同志社女学校校舎 白壁と濃褐色の木製ベランダが美しいコントラストをなしていた。前庭のアプローチもモダンである
    1-10 正面から見た同志社女学校校舎 白壁と濃褐色の木製ベランダが美しいコントラストをなしていた。前庭のアプローチもモダンである

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京都ホームの地理的条件

アメリカン・ボードの宣教拠点、神戸

1869(明治2)年アメリカン・ボードが日本伝道を決めたとき、最初に派遣されることになったのが、D. C. グリーン(Daniel Crosby Greene)であった。夫妻はすでに他教派の宣教師が活動を繰り広げていた江戸を離れて、神戸を伝道の拠点に選んだ。なぜなら、神戸・大阪地方は、地理的に日本の中央部に位置するにもかかわらず、プロテスタントの伝道者は大阪にただ一人ウィリアムズ監督がいるだけであり、しかも、彼はグリーン夫妻の神戸居住を大いに歓迎したからである。
グリーンの後に続いてボードから派遣されて来たのが、1871(明治4)年3月O. H. ギューリック(Orramel Hinckley Gulick)、同年12月J. D. デイヴィス(Jerome Dean Davis)夫妻であった。メンバーが3人そろうのを待って、日本ミッション第1回年次総会を開催、憲法規則を制定した。はるばる外国に宣教師を送り出すボードの第1の目的はもちろんキリスト教伝道のためであったが、禁教下の日本において宣教師が直接伝道することがはなはだ困難な状況の中で、伝道手段のひとつとして英語聖書を通して英語を教授することは手近な方法であり、また日本の青年にとって英語を学ぶことは西洋文明に接近するもっとも有効な手段であった。
1872年、数名の青年たちの要望で神戸の近郊宇治野村で始められた英語学校は、そのような学校のひとつであり、その学校の特別教室として女性と子供のために開かれた学校とともに、それらが3年後神戸の女学校および同志社英学校・女学校の創設につながるのである。宇治野村英語学校の校長がJ. D. デイヴィスであり、その特別教室の教師となるのがボード最初の女性宣教師タルカット(Eliza Talcott)とダッドレー(Julia E. Dudley)であった。

「内陸部」京都に建つ同志社

アメリカン・ボードの基本姿勢はあくまでも直接伝道であって、「言語未熟で直接伝道ができない場合に限って、人びとと交わる手段として、聖書または他教科を教える英語のクラスを開いてよい」(茂義樹『明治初期神戸伝道とD. C. グリーン』)との方針であったので、宇治野村の英語学校のつぎは、伝道者養成を目的とする神学校づくりがデイヴィスらの目標となるのは当然のなりゆきであった。
折しも、新島襄がヴァーモント州ラットランドで開催されたボードの年次総会において、「現地人説教者やクリスチャン教師を養成するために日本に学校を設立する」(The Rutland Herald , 1874年10月9日)ための募金に成功したとのニュースが伝わってきていた。そこで、新島が帰国するのを待ち構えて、日本ミッションは1875年1月29日特別会議を開き、「ミッションのトレーニング・スクール設立」を決定する。その学校は「福音宣教に従事する青年を最良に訓練するために科学と神学の研究を双方教える高等神学校である」(Minutes of Special Meeting,1875年1月29日)と規定されている。
さて、その神学校を大阪に建てる案が頓挫して、急遽京都に決まったことは日本ミッションにとって望外の幸運であったとともに、その後の学校の歩みに測り知れないほどの困難をもたらすものとなった。
当時、日本国政府が外国人に居留を認めていた開港地ではなくて、京都のような「内陸部」に外国人が居住し財産を持つためには、日本人に雇用されるということが必要条件であった。1875(明治8)年8月23日、京都府に提出された同志社英学校の私塾開業願において、J. D. デイヴィスは新島襄とその結社人山本覚馬に「雇い入れられて」初めて京都に住むことができるようになったのであり、J. D. デイヴィスの要請によりアメリカン・ボードから派遣され、京都ホームで働くことになる最初の女性宣教師A. J. スタークウェザーは、新島襄が「同志社雇入米国教師デビス厄介婦人アレスジェーストークエゾル二十七年九カ月を弊社分校女紅場へ雇入教授可仕候」と届け出ることによって初めて正式に京都に居住し教えることが可能となったのである。スタークウェザーの渡航費、滞在費、給料その他すべてはウーマンズ・ボードの負担であったのであるが。
その上、京都が二千年近く都であったため、長く京都に根を下ろしていた仏教、神道など旧来の宗教からの嫌がらせは激しく、とくに長年京都に住む人たちの中には、外から入ってくる異質のものに対する拒絶反応が強くあった。古い都には、いわゆる封建的・儒教的女性観が浸透していたので、人びとはキリスト教女学校の設立には全く冷淡であった。開港地神戸に建った神戸ホーム(神戸女学院の前身)に対しては、日本人の側から強い要望があり資金提供もあったのと比べて大きな違いである。この最初からの状況が京都の女学校の存立、存続を大変難しくした。開校当初、地元からの生徒は期待できないので、同志社英学校生徒が姉妹か知人を地方から連れてくる以外ないだろうと考えられていた。実際、J. D. デイヴィス一家が京都に移ってきて半年ぐらいは「女の人は誰一人彼らの家の庭に足を踏み入れなかったし、現在でも、新島夫人が近づくと、彼女の隣人たちは逃げるのだ」と、1877年2月20日付の手紙にデイヴィスは書いている。

英学校と女学校の距離の近さ

京都ホームが独自の校舎を持つことになり御苑内の借家柳原前光邸から移ることになったとき、その候補地を同志社英学校の近くにと考えることはきわめて自然なことであった。それゆえ、いくつかの候補地の中から同志社英学校の東、常盤井殿町に位置する二条邸跡に決まったときは一同ほっとしたようである。しかし、当時は仏教徒の同志社に対する反対運動が絶頂期にあったときなので、同志社と名乗って土地の購入をすることは絶望的であり、現在の女子部校地の南西角あたりに住んでいた材木取引商の堀本利慶が、自己の名義で女学校敷地を購入することに同意してくれて可能になった。その時期、「京都ステーション」(地方伝道本部の呼び名)の書記であったラーネッドの報告書によると、「土地代約400ドル、工事契約料4,400ドル、釘および金具代約310ドル、井戸100ドル、その他庭の植木代ほかで、計5,500ドル(当時1ドル=約1円)の見積り」(1878年4月20日クラーク宛書簡)と記されている。土地代と建築費のバランスの対比が興味深い。なお、この金額すべてがウーマンズ・ボードの百周年募金でまかなわれたことは前述したとおりであるが、この校舎に関しては「同志社視察之記」(『同志社百年史 資料編一』)が興味深い。
この「視察之記」というのは京都府外務掛が外国人教師の業務を内偵するために、1879(明治12)年5月から1883(明治16)年6月までほぼ毎月同志社を訪れ、外務省に報告を送っていた記録である。皮肉なことに、今となっては当時の女学校の模様を克明に記録した資料として大変貴重なものとなった。校舎に関しては、清潔であること、壁面に掛図や額がかけてあるが、すべて「耶蘇宗教関係」のものばかりであること、応接間には洋琴があることなどが注目を引いたようである。新校舎ができるまで、寄宿生は14名以内と制限されていたが、このころの生徒数が大体30人前後であったことも、この「視察之記」によって確認することができる。
両校の近さには、その時点では予想もされなかったようなメリットとデメリットの両方が存在した。まず、メリットから見ていくと、冒頭で述べたとおり、創立時から規模において同志社英学校は女学校をはるかに凌いでいたので、たとえば、礼拝堂、化学実験室等女学校独自の設備としては持つことができなかった建物を共用できたことが挙げられる。  それは人事においても同様であった。卒業演説で「女子教育論」を述べた同志社英学校第1回卒業生宮川経輝は、卒業前から女学校の授業を受け持ち、カリキュラムに関してスタークウェザーに助言を与えていたし、卒業後、女学校教師に就任して以来の彼の働きは規則制定など女学校の基礎づくりになくてはならないものであった。女学校最初の奨学金制度となる女子教育社の規約も、宮川が中心となって作成された。また、英学校生徒が女学校の授業の、たとえば、暗唱等の手伝いをするというのはその後ずっと続き、京都ホームの慢性的教師不足を補っていた。
しかし、このことが後になって女学校の教育の独自性を損なうという重大な問題を引き起こすことになる。のちに詳述する「同志社女学校明治18年事件」が起こる前年のラーネッド報告(「女学校問題」1884年7月10日クラーク宛)の第1に挙げられたのが、この問題であった。すなわち、「この学校の難しさは男学校と女学校が地理的に接近していることに起因するものである。具体的には、男学校の生徒が女学校の規則の厳格さに抗議するなど、ある意味で学校の内政に干渉するので、それが女生徒を動揺させる結果になっている」と指摘されている。「事件」のときの責任者となる女性宣教師A. Y. デイヴィス(Anna Young Davis)も、1884(明治17)年7月12日のクラーク宛書簡で、男学校生徒対女学校生徒の問題として「男学校生徒が女学校にいる彼らの妹・妻・友人に手紙を送り、学校の経営方法を指南していたふしが見られる」と書いている。ただし、ラーネッドもデイヴィスも、他の理由に比べると、これは大したことではないと断り書きしている。
「明治18年事件」後、教頭中島末治の懇請を受けて着任することになるクラークソン(Virginia Alzade Clarkson)は、この京都ホーム特有の問題に対しては、「断固として如才なく、知恵と、とりわけ愛情をもって」(1885年12月14日チャイルド宛)対応し、「女生徒のところから男生徒を脅して追い払い、こちらの味方に付け」(1886年3月2日ボウカー宛)なければならなかったが、もう先は見えてきたと、いかにも彼女らしい自信たっぷりの報告をしている。
しかし、つぎの責任者となるホワイト(Florence White)は「両校の近さゆえに、男学校の若者たちが姉妹の勉強に口をはさみ、学校の経営にさえ口を出すという弊害がいまだに存続している」と書き送り、「女学校が英学校の付属物になっては、その存在理由はない」(1890年5月29日クラーク宛)とはっきりとその弊害、マイナス点を指摘した。その上、市の中心部に校舎を移すことすら示唆している。
このホワイト「校長」(同志社女学校の書面上の校長は新島襄であったが、アメリカン・ボード書簡の中では女学校経営の責任を持つ女性宣教師を「校長」[‘principal’または‘head’]と呼んでいた)の病気帰国に伴い、アメリカン・ボード派遣で、最後の女学校「校長」となるマイヤー(Mathilde Hermine Meyer)が着任した。彼女は仙台の東華学校で男生徒と楽しく勉強しており、「昔から難しいと評判の」同志社女学校へ移籍することは甚だ気が進まなかった。しかし、新島の死後、彼への恩義から女学校教頭を引き受けていた松浦政泰から「このような立場の女性が、アメリカで持つのと同じ全責任を引き受けてほしい」(1891年10月25日クラーク宛)と説得され、ともかく仕事に着手した。2年にわたる彼女の女学校在任中、松浦との信頼関係は崩れることなく、彼と協力して女学校の高等教育化への基礎づくりに邁進したが、やがて同志社内に広がる日本人教師と宣教師との険悪な空気(これが後に1896年アメリカン・ボード宣教師総引き揚げとなる)にいたたまれず、その上ホームシックも加わって1893(明治26)年11月日本を離れた。彼女にとって、松浦の誠実さは心底から信頼できたが、「同志社校長小崎弘道や理事湯浅治郎からの留任懇請はただ単に儀礼的なものと、少しも心動かされることはなかった」(1893年7月18日クラーク宛)と報告している。
英学校と女学校の距離の近さには、英学校の干渉とともに、女学校の側には依存姿勢を生み出すという問題を残した。創立当初の「同志社分校女紅場」という意識と、「同志社とペアの関係にある学校」という考え方の間には根本的な違いがあったということであろう。

  • 「京都ホーム」募金を呼びかける記事 募金の単位を一口100、50、25、10ドル(10ドルは子供用)とすること、「芳名録」には募金に協力した子供の名前まですべて記して記念とすることを提案『女性のための生命と光』1876年5月号
    1-11 「京都ホーム」募金を呼びかける記事 募金の単位を一口100、50、25、10ドル(10ドルは子供用)とすること、「芳名録」には募金に協力した子供の名前まですべて記して記念とすることを提案『女性のための生命と光』1876年5月号
  • アメリカ独立百周年を記念してウーマンズ・ボードが「京都ホーム」建設を呼びかけ、その募金に協力した人びとの「芳名録」 「芳名録」の図案を考案し作成したのはウーマンズ・ボード会員のウィンスロー夫人(Mrs. M. Winslow)
    1-12 アメリカ独立百周年を記念してウーマンズ・ボードが「京都ホーム」建設を呼びかけ、その募金に協力した人びとの「芳名録」
    「芳名録」の図案を考案し作成したのはウーマンズ・ボード会員のウィンスロー夫人(Mrs. M. Winslow)
  • J. D. ディヴィスおよびA. J. スタークウェザー雇用表
    1-13 J. D. ディヴィスおよびA. J. スタークウェザー雇用表
  • 同志社所有土地(1877年)
    1-14 同志社所有土地(1877年)
  • 御苑内柳原前光邸と新校舎の建つ二条邸位置
    1-15 御苑内柳原前光邸と新校舎の建つ二条邸位置
  • 同志社女学校遠景 後方に二条関白御殿が見える
    1-16 同志社女学校遠景
    後方に二条関白御殿が見える
  • 同志社英学校最初の校舎 1876年9月、相国寺門前に竣工。左から第二寮、食堂、第一寮(いずれも現在のクラーク館周辺)
    1-17 同志社英学校最初の校舎 1876年9月、相国寺門前に竣工。左から第二寮、食堂、第一寮(いずれも現在のクラーク館周辺)
  • 宮川経輝 女学校最初の教頭、英学校第1回卒業生、熊本バンド出身 卒業演説は「女子教育論」
    1-18 宮川経輝 女学校最初の教頭、英学校第1回卒業生、熊本バンド出身 
    卒業演説は「女子教育論」
  • 加藤勇次郎 英学校第1回卒業生 熊本バンド出身。宮川とともに女学校の教師となる。主に理数系を教えた
    1-19 加藤勇次郎 英学校第1回卒業生 熊本バンド出身。
    宮川とともに女学校の教師となる。主に理数系を教えた
  • 「同志社視察之記」下 京都府外務掛が定期的に内偵に来ていた。明治12年5月28日の女学校の授業風景や建物内部の様子が詳しく記録されている
    1-20 「同志社視察之記」下 京都府外務掛が定期的に内偵に来ていた。明治12年5月28日の女学校の授業風景や建物内部の様子が詳しく記録されている
  • 「同志社女学校校則」 宮川経輝筆
    1-21 「同志社女学校校則」
    宮川経輝筆
  • 「女子教育社規約」女学校最初の奨学金制度
    1-22 「女子教育社規約」
    女学校最初の奨学金制度
  • H. F. パーミリーと山本峯 互いに服の交換をしている
    1-23 H. F. パーミリーと山本峯
    互いに服の交換をしている
  • M. F. デントンとM. E. ウェンライト
    1-24 M. F. デントンとM. E. ウェンライト
  • F. フーパー
    1-25 F. フーパー
  • 同志社女学校(Kioto Home)在任女性宣教師(1876年~1893年)女学校に「校長」として在籍した独身女性宣教師たち<
    1-26 同志社女学校(Kioto Home)在任女性宣教師(1876年~1893年)
    女学校に「校長」として在籍した独身女性宣教師たち
  • A. J. スタークウェザー(初代)女学校に「校長」として在籍した独身女性宣教師たち
    1-27 A. J. スタークウェザー(初代) 女学校に「校長」として在籍した独身女性宣教師たち
  •  A. Y. デイヴィス(第2代)女学校に「校長」として在籍した独身女性宣教師たち
    1-28 A. Y. デイヴィス(第2代)
    女学校に「校長」として在籍した独身女性宣教師たち
  • V. A. クラークソン(第3代)女学校に「校長」として在籍した独身女性宣教師たち
    1-29 V. A. クラークソン(第3代)
    女学校に「校長」として在籍した独身女性宣教師たち
  • F. ホワイト(第4代)女学校に「校長」として在籍した独身女性宣教師たち
    1-30 F. ホワイト(第4代)
    女学校に「校長」として在籍した独身女性宣教師たち
  • M. H. マイヤー(第5代)女学校に「校長」として在籍した独身女性宣教師たち
    1-31 M. H. マイヤー(第5代)
    女学校に「校長」として在籍した独身女性宣教師たち

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