第6章 煉瓦造と構造補強について

85年の歳月を経てなお

我国の近代化時代を支えて来た煉瓦造は、関東大震災(大正12年)における甚大な被害から、市街地建築物法施工規則が改正され、徐々に鉄筋コンクリート造(以下RC造と略す)や鉄骨造にその座を譲ってきた。
煉瓦造の耐震診断は、これら現在の主要構造材料と同様に計数化して安全性指標を確認できるものではない。しかし、85年の歳月を経て尚、ジェームズ館は活用され、昔と変わらず息づいている。ここに、武田五一と、この建造物に携わった職人達の並々ならぬ想いと、その努力の成果を感じられずにはいられない。保存を前提とした改修設計から工事の中で得られた構造的知見を以下にまとめる。

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なぜ、煉瓦造なのか? -同志社らしさと近代建築史の流れの中で-

同志社女子大学における武田五一の3部作。旧静和館(1911年着工)、ジェームズ館(1913年着工)、栄光館(1930年着工)の前2作が煉瓦造で栄光館のみがRC造となっている。煉瓦造は、濃尾地震(1891年)の経験から、目地にセメントモルタルを使用し、高品質の煉瓦の生産と施工精度の強化を行なうことによって耐震性能を強化してきたが、その後1923年の関東大震災を契機に、RC造に主役を譲ることとなる。(ジェームズ館と同時期の三井物産横浜支店一号館(1911年竣工)が、日本で初めてのRC造建築物と言われている。)
同志社では、彰栄館(1884年)、礼拝堂(1886年)、有終館(1887年)と開学間もない頃から宣教師D.C.グリーンの手により、煉瓦造建物を建築してきた歴史がある。ジェームズ館の計画に際しては、“木造”という選択肢もあったかもしれないが、武田五一は先の煉瓦造建物を同志社コンパウンドとして評価していたことから、同女にも煉瓦造を薦めたものと思われる。
また、武田五一は、1900年代初頭に、数度にわたって渡欧し、欧米の煉瓦造について見識もあり、自らも名和昆虫記念館(1907年竣工)、京都府記念図書館(1909年竣工)などで、煉瓦造を採用する等、その技術について充分習得していたと考えられる。また京都商品陳列所(1910年着工)では関西で初めてのRC造を手掛けている。
なお、関東大震災(1923年)以降、市街地建築物法施工規則の改正に伴い、同女3部作の最後に建造された栄光館ではRC造が取り入れられるが、外壁に煉瓦タイルを用いることで、当初のマスタープランが踏襲されている。1928年に同志社大学の詰所からの出火により被害を受けた有終館を残すため、煉瓦壁を生かしたまま、内部にRC壁を設けて、修理保存することを提案したのも武田五一である。このような事からも、彼が‘同志社コンパウンド’と称賛していた煉瓦造建物へのこだわりが窺える。

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床・屋根は木造在来構法

主な耐力壁は煉瓦造。南を正面とした東西行の棟の両翼に、南北行の翼部を設けたH型の形状をとる。外壁と各室(教室)間を煉瓦壁とし、その延長となる廊下部はアーチ状を成し、南北外壁間を一体の壁として、剛性を高めている。
煉瓦耐力壁間の距離は約7.5mと約10.5mとなっており、一部(北西教室)を除いてその間に在来構法で米松の床梁を渡して床組を形成している。しかし、10.5mは在来木造構法の限界を超えたスパンなので2階の床梁は、南教室と廊下の間の木造間仕切壁で支持している。この木造間仕切壁の経年変化に伴い、2階廊下の床にたわみが生じており、扉の開閉に支障をきたしたり、気密性が損なわれている部分があるので、根太部分でたわみを解消するよう工夫した。
小屋組は、センター部を対束小屋組(キングポストトラス)、両ウイングは真束小屋組(クイーンポストトラス)と洋小屋組とし、その上に野地板とトントン葺を施した、和洋折衷の架構としている。

アーチ状の廊下部

図面


ジェームズ館探訪